そして　いつかどこか

エピローグ

「……覚えのある感覚だわ。全然、懐かしくないけど」
　懐かしい、と表現するには、あまりにもおぞましい感覚。泥のように濃密な魔力に、遠坂凛は苦々しく吐き捨てた。
　脚を一歩進めるごとに、体力が削げ落ちていくのを感じる。気を抜くと、そのまま倒れてしまいそうだった。
（──やれやれ、歳を取ったものね）
　あまりにも弱くなってしまった肉体に、苦い笑みを浮かべる。まったく、長生きするのも良かれ悪しかれだ。
　魔術師である。
　長生きはできないかもしれないと覚悟して生きてきたが、結局、杞憂だったわけだ。
　あの懐かしい時間を共に駆け抜けた仲間たちも、皆、凛を残して逝ってしまった。士郎も、桜も、慎二も、ルヴィアも、もちろんセイバーもライダーも、今はもういない。
　随分と、遠いところまで来てしまったものだ。
　──まあ、どうやら命を惜しんできた甲斐はあったようなのだが。
「……アインツベルン。いい加減に、最初の一歩から間違っていたのだと気付いても良い頃でしょうに」
　気つけ代わりに、千年を超えて愚行を繰り返している一族を罵った。
　遠い異国の地。
　ここでもまた、アインツベルンは聖杯召喚の儀を執り行い──そして、あのときと同じ過ちを犯した。
　この森林の奥に設置された工房の中心地、凛が向かう先では、凝縮された怨念が今まさに産声を上げようとしている。時が来たれば、この世に地獄が現れることになるだろう。
　なんとしてでも、この手で防がなくてはならない。もう、この世界に正義の味方は存在しないのだから。
「…………ちっ。思っていたよりも、育っているか」
　脚を速めて進んでいた凛は、舌打ちをして立ち止まった。
　行く先に、黒い影が立ち塞がっている。
　かつて目にしたあの影とは比べ物にならないほど小さな規模だが、間違いなく同種の存在だ。
　時間がない。凛は懐から、宝石のような刀身を持つ剣を取り出した。
　かの魔道元帥が作り上げし宝石剣。その複製品だ。
　この世界に存在する、数少ない魔法の品のひとつである。
　凛は魔術回路を起動、平行世界から汲み上げた魔力を、閃光として解き放った。
　だが──
（……ここまで老いたか！）
　全盛期であれば一撃で撃退できたはずの敵は、平然と存在し続けていた。供給が無限に等しくとも、身体が魔力を扱いきれなければ、意味が無い。
　そして、追撃をかけてくれる剣士も、凛の横にはもういなかった。
　影は腕を伸ばし、凛を取り込もうとする。魔術を紡いで防御──しきれない。
　影の腕が、凛の身体を掠めた。
「ぐっ……！？」
　攻撃を受けた箇所が熱を持ち、凛から体力を奪っていく。強行軍で疲れ果てていた凛は、ただの一撃で崩れ落ちてしまった。
「……はは……やっぱり、私ひとりでは、詰めが、甘いか……」
　地面に転がりながら、凛は口元を歪めた。
（だから、先に死ぬなと言っておいたのに──まあ、いいか。いずれ、星の力が修正するでしょう）
　影が迫ってくる。
　もとより、アレとかかわることで大切な者を得てきた身だ。こういった形で終焉を迎えるのも、ある意味では道理というものだろう。
　魔術師の基本は、等価交換なのだから。
　凛は目を閉じ──突然、背後で膨れ上がった巨大な魔力に、慌てて目を見開いた。
　耳の奥に圧力を感じる。背後から旋風が巻き起こり、影を押し返し始めた。
「──────」
　風の唸りの向こう側から、僅かに声が聞こえた。
　続いて、目前を強い魔力の込められた何かが通り過ぎて行く。
　影に命中し、爆裂した。
　苦悶に身を捩る黒い影に向かって、疾風の如き神速で走り寄る人影が二人。
　左右から同時に襲い掛かった彼らは、豪放な一撃と鋭い一閃をもって、具象化した呪いを存在ごと斬り裂いた。
「──────ああ」
　凛は、感嘆の息を漏らした。
　まったくもって……相変わらずだ。本当に、救い難いほど律儀な奴らではないか。
　ふらつく脚を叱咤して、立ち上がる。
　視線の先で、懐かしい、あまりにも懐かしい姿が、ゆっくりと振り返った。
　何も言わず、ただ口元に笑みを浮かべる赤い騎士に、凛は小さく鼻を鳴らして応えてやった。
「……ふん。若作りしたものね。老いぼれた私を笑いに来たの？」
　赤い騎士は微笑を苦笑に変えて、頭をかいた。
　彼に寄り添うようにしていた金髪の剣士が、懐かしそうな顔で凛を眺めている。
　彼女はいつまでも変わらない。凛はこんな有様だというのに、瑞々しい少女のままだ。ただ、碧玉の瞳だけが、とても懐かしかった。
　どうにも二人の視線が面映かったので、凛は大仰に顔を背けて呟いた。
「……まったく。いつまで経っても仲が良いんだから。──さ、一人身の年寄りには目の毒だから、さっさと行きなさい。どうやら、私では収拾できそうにないしね。あまり時間はないわよ」
　彼と彼女は表情を改め、凛に向かって深く頷くと、踵を返した。
　その背中に向かって、声をかける。
「──ありがとう、約束を守ってくれて。……それと。ええと、あんたは……その」
　ぼそぼそと口籠ってから、凛は苦笑した。いまさら、世話を焼かねばならないことなどない。
「世を拗ねた皮肉屋になったりしなければ、どうでも良いわ。ま……先は長いでしょうけど、頑張りなさい。ふたりもいれば、大抵のことはなんとかなるものよ」
　一度脚を止めて、しっかりと頷いて。
　しかし振り向くことはせずに、ふたりの英霊は鬱蒼とした森林の奥へと消えて行った。
「……ふむ」
　自分の仕事は無くなったと判断して、凛は地面に寝転がった。
「……いや。長生きは、してみるものね」
　しみじみと呟く。
　そろそろ年貢の納め時かと思っていたが、どうしてどうして。
　あと十年や二十年は生きてみる価値がありそうではないか。
　上手くいけば──いや、運が悪ければか──もう一度ぐらい、奴らと顔を合わせる機会だってあるかもしれない。まあ、老後の楽しみとしては、そう悪くなかった。
「──それにしても。
　馬鹿は死んでも治らないみたいね…………士郎」
　懐かしい恋人の名を呼んで、凛は口元を綻ばせた。

　二条の閃光が大地を引き裂いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。

　超高温の閃光で焼き払われた森林は、火災を起こすこともなく、ただ傷痕のみを晒していた。
　アインツベルンが設置したシステムも、そこから生まれ出でようとしていた地獄も、既にこの世界から排除されている。
　剣を納めた彼は、周囲に広がる惨状を無言のままに見回していた。
　そこかしこに転がっているのは、この工房を築いたアインツベルンの魔術師たちと、彼らによって生贄にされた人々の躯だ。
　飽くほどに眺めてきた、いつもの光景。地獄を生み出さないために作り出された、もうひとつの地獄だった。
「……また、同じか。結局、人を殺しただけだった」
「──いいえ。少なくとも、ひとつの命を救いました。それも、私たちにとって大切な命を」
　呟く諦観を、そっと拾い上げてくれる声がした。
「……そうだな。そうだった」
　そっと、傍らに立つ少女を抱き寄せる。輝く黄金の頭髪が、さらりと揺れた。
　変化のない現実には飽き飽きしていたが、唯一、彼女が変わらずに居続けてくれることだけは、救いだった。
　──士郎が、セイバーをここまで連れてきてしまったのに。
「……すまない、セイバー。俺のせいで……」
　もう、何度口にしたか分からない、謝罪の言葉。返ってくる言葉は分かりきっていたが、それでも口にせずにはいられなかった。
　セイバーは微笑みながら首を振り、士郎を優しく抱き返してくれる。胸辺りまでの身長しかないセイバーに、士郎は確かに包み込まれていた。
「後悔しているわけではないのでしょう？」
「もちろん、俺自身のことについては。でも、お前は……」
　遥か遠い時流の彼方で交わした約束を、今でも守り続けてくれている、大切な半身。ただ士郎のためだけに、魂を売り渡してしまった少女の頭を撫でる。
「……こんなところまで、付き合うことはなかったのに」
　ふるふると、金糸が揺れた。
「いいえ。貴方がかつて、私を失わないために決断をしてくれたように──私は私の意志のもとに、契約を交わしたのです。私の望みと──そして、彼女と交わした約束を守るため。──凛が、私をここに連れてきてくれた。この道は、私と彼女の道でもあるのです、シロウ」
「……セイバー」
「シロウは、いつでも私の鞘であってくれた。だから──今は、私が貴方の鞘だ。鞘は剣を納めるもの。ここ以外のどこにも、私の居場所はありません」
「────ありがとう」
　あとは言葉もなく、士郎はセイバーを抱き締めていた。
　やがて、時間が来る。
　セイバーの交わした契約に基づき、今ここにいる士郎とセイバーは、英霊の座にいる「本体」と繋がった存在として現界していた。
　ただの端末としてではなく、縛られながらも意思を持つ英雄として、世界の敵を討つ。そして、仕事が終われば英霊の座へと戻され、即座に何処ともしれぬ場所へ送り出されるのだ。
　常に、ふたりで。
　それが、士郎とセイバーに課せられた──いや、士郎たち三人が選んだ運命だった。
　今はふたり。だが、同時に二人は三人でもあった。
「……時間だな」
「はい。次の戦場が待っている」
　士郎から離れ、セイバーが天を睨む。
　次の戦場を駆け抜け、さらにその次の戦場へ。士郎とセイバーは永劫の戦場を戦い抜かなければならない。
　後悔はしていない。出来るはずもない。果てにあるものが何か知りつつ、衛宮士郎とセイバーはこの道を選んだのだから。
　時々、互いに愚痴をこぼしながらも、絶望することだけはしない。
　本気で後悔しようものなら、どこからともなく凛が飛んできて、頭をはたかれかねないではないか。
　答えは、もとよりこの胸に。
　凛と交わした約束と、セイバーと交わした誓約。そして、三人で過ごした思い出がある限り、士郎は前に進み続ける。
　たとえ、その果てに何もなくとも。
「……さあ、行こうか、セイバー」
「ええ。ご一緒します、シロウ」
　今も昔も変わらない、清純な誓いに裏打ちされた顔で、セイバーが微笑んだ。
「──何処までも、何時までも。この星の命が尽きる、その時まで」