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４ ──そうして、あいつの夢を見る。 どこまでも御人好しで、自分よりも他人のことが大事で。 自分が大切なものを手放し続けていることにも気付かず、遠い日に欠落した何かを埋めようと、前へ前へと進み続けた男。 彼を支えようとする人はたくさんいたというのに、誰かの影を追うようにして、自分は独りなのだと呟き続けて生きた男。 そして、理想の通りに生涯を駆け抜け、やがて理想に絶望してしまった男。 ──まったく、あいつと一緒にいた遠坂凛は、一体どんな甲斐性なしだったのか。 ここにいる自分ならば、絶対にもっと上手くやってみせると、意気込んで歩んできた三年間。 士郎がいて、凛がいて、セイバーがいて。 何も間違いなどないと、確信して進んできたというのに── 目が覚めた。 見慣れた自室の天井が見える。 まず、身体の調子を確かめる。悪くない。この館は、遠坂の魔術師が傷を癒すには最適の場所だった。 次に、思考する。 どこからどこまでが夢だったのか。もしかしたら、都合の悪い部分も全部夢だったのではないか── 淡い希望は、枕元に座る男の顔を見た瞬間に打ち砕かれてしまった。 「──おはよう、遠坂。気分、悪くないか？」 「…………士郎」 息が詰まる。 微笑む士郎の姿は、変わり果ててしまっていた。過去と現在、夢想と現実が頭の中で交差して、眩暈を感じる。 凛は叫び出したいのを堪えて、尋ねた。 「──桜たちは？」 「無事だよ。今は休んでる」 「そう」 小さく息を吐く。 それは、何よりだった。だが、本当に聞きたいのは、そんなことではない。 「……士郎、貴方」 言葉が続かない。確かめてしまうのが怖い。 そんな凛を穏やかな表情で見やりながら、士郎はなんでもないことのように答えた。 「ああ。世界と契約した」 「────」 目の前が真っ暗になった。 信じられない裏切りだ。共に過ごしてきた三年を、否定する言葉だと思った。 すぐに、滅茶苦茶に混ざり合った感情の塊が吹き出してくる。 「──何考えてるのよ、あんたは！ そんなんじゃ……そんなんじゃ、何の意味もないじゃない！ 自分が何をしたか分かってるの！？ 馬鹿！ 救いようのな い馬鹿よ、あんたは！」 ぐっちゃぐちゃになった頭脳は、まとまりのない罵声を吐き出し続ける。 目元が熱い。信じられないことに、自分は泣いているようだった。 また泣かされた。これでもう三度目だ。こいつと出会うまでは、人前で泣くことなんてなかったというのに。 「──もう、取り返しがつかない。これじゃあ、あいつと同じになっちゃうじゃない」 ごしごしと涙を乱暴に拭き取って、馬鹿な恋人を絶望的な気分で見やる。 泣いている凛に困った顔を浮かべていた士郎は、確信の篭もった視線を返して首を左右に振った。 「──違うよ、遠坂。まったく逆だ。あの時、セイバーを斬ってしまっていたら……きっと俺は、あいつと同じようになってた」 「────セイバーのためだったら、後悔なんてしないってこと？」 ぐすっと鼻をすすりながら問いかける。 士郎が言っているのはそういうことではないと分かっていたのに、問わずにはいられなかった。だって、士郎の運命を決めるのは、いつだってセイバーではな いか。 だが士郎は、馬鹿だなと言わんばかりの表情で笑って、凛の頭をぽんと叩いた。 「そりゃ、後悔なんてしないけど。もっと単純な話なんだって。俺は、遠坂ともっと生きていたいと思ったし──それなら、そこにはセイバーもいなくちゃ駄目 だと思っただけだ。ただ、自分の大事なものを守っただけで……我侭を通しただけなんだよ。……まあ、正義の味方としてはどうかと思うけどさ」 「…………あ」 ──ああ、なんだ。 凛は理解して、少しだけ救われた。 相変わらずのお人好しで、決断は最悪のものだったかもしれないが── 士郎は、見知らぬ他人のためにではなく、自分の大切なもののために魂を売り渡したのだ。 それは、英霊エミヤの生き方とは、似ているようで全く違う。ここにいる英雄は、もっと俗っぽくて優柔不断な──遠坂凛の衛宮士郎だった。 だからまあ、凛はこの馬鹿を許してやることにした。しっかり泣かされてしまったことは、この先、一生をかけて復讐すべき事柄だと心に刻みつけて。 ふっと、意識せずに笑みが漏れた。 「──なによそれ。つまり、私のことは大事だけど、セイバーのこともやっぱり大事だーって言ってるだけじゃない。前々から思ってたけど、我侭よ、それっ て」 「……む。やっぱり、そうか？」 奇跡的なことに自覚はあったらしく、士郎は気まずそうに頭をかいた。それでも譲るつもりはないのか、無理やりに胸を張って言う。 「でも、これで良いんだ。遠坂とセイバーのいない人生なんて、俺の生き方じゃない。俺は、頼りないからな。二人がいないと、多分駄目になる」 情けないことを誇らしげに口にする馬鹿者を、凛は目を細めて見上げた。 と、肝心なことを尋ね忘れていたことに気がつく。 「で、桜たちは分かったけど、セイバーは？ あの娘も休憩中？」 「……ああ。遠坂、そのことなんだが」 士郎が口籠もった。 嫌な予感がする。 「──まさか、引き止め損ねたなんて言わないでしょうね？」 「そんなことあるわけないだろ。ちゃんと現界してるさ。ただ……」 「ただ、なによ？」 「──そのことなのですが、士郎、リン」 背後から聞こえてきた第三者の声に、士郎と凛は慌てて振り返った。 「なんだ、ライダーか……驚かせないでくれ」 霊体化して移動してきたのだろう、扉も開かずにライダーが背後に控えていた。 「申し訳ありません。ですが、こちらの方が早く移動できたもので」 彼女は、特に悪びれた様子もなく慇懃無礼に頭を下げると、続けた。 「セイバーの姿が見当たりません。貴方たちにとっては大事でしょうから、一応お伝えしておきます」 士郎の顔色が変わった。 士郎とセイバーの間に繋がれたパスは、まだ不安定らしい。 彼女がどこにいるか、凛たちには知る術もなかったのだが、士郎は悩むことなく駆け出していた。凛は何も聞かずに、士郎に付いて走った。 辿り着いた場所は、衛宮の屋敷の土蔵だった。 日の光りから隔絶された薄暗い空間に、彼女はいた。 こちらに背を向け、じっと中空を睨んでいる。その後姿は、はっきりと他者を拒絶していた。 承知の上で、士郎と凛は土蔵の中へと足を踏み入れる。 士郎が空々しい笑顔を浮かべて、気さくな口調でセイバーを呼んだ。 「セイバー。急にいなくなるから、心配したぞ。……まあ、色々と考えなくちゃいけないことはあるけど。とりあえず、飯にしよう。セイバーだってお腹空いて るだろ？」 返事は無い。セイバーは姿勢を崩さずに、ただ佇んでいる。 「ねえ、セイバー……」 「──無事だったのですね、凛。これで、安心できる」 代わって声をかけた凛の言葉を遮って、セイバーがようやく口を開いた。 その声からは、確かに安堵の色が滲み出ていたが──どこか、凛を不安にさせるものをも含んでいた。打ち消すように、凛は言葉を重ねる。 「ええ。おかげさまでね。──それは良いんだけど、顔ぐらい見せなさい。不可抗力だったんだから、いつまでも落ち込まないの」 明るく発破をかける凛の声が、空々しく土蔵に響く。 セイバーは力なく首を振ると、言った。 「──シロウ。お願いがあります」 「……なんだ？」 警戒心の篭もった口調で、士郎が問い返す。セイバーの小さな背中に、ぎゅっと力が篭もるのが見えた。 「令呪を使って、命令してください。──『消えてなくなれ』と」 凛は絶句した。 ──なんてことを言い出すのか、この娘は。 士郎の顔が、凛も見たことがないほどの激しい怒りに染め上げられる。 もちろん、凛はそれ以上に怒り狂っていた。 士郎の馬鹿げた決断も、セイバーのためだったのなら許せると思った。心穏やかではいられない面もあったのだが、我慢することができた。 セイバーなら、何があっても士郎を支え続けてくれると信じられたからだ。 その信頼を、この娘は裏切ろうとしている。 「──そんなこと認めるわけないでしょうが、この大馬鹿娘！」 気がつくと、凛はセイバーを怒鳴りつけていた。 頭に血が上りきって、眩暈にも似た感覚が襲ってくる。凛は足音高くセイバーへと歩み寄り、肩に手をかけた。 「ふざけるんじゃないわよ！ 私の士郎をこんなんにしたんだから、ちゃんと責任を取りなさい！ 敵に操られたぐらいが何よ？ それとも、士郎がこうなった ことへの詫びのつもりなわけ？ ひとりで悲劇のヒロインぶってるんじゃ……」 「……違うのです、凛」 凛の手を肩から引き下ろし、セイバーがゆっくりと振り返った。 凛は息を呑んだ。 さきほど、士郎の変貌を目の当たりにしたときよりも、さらに大きな衝撃が意識を打ち据えている。 見慣れた清楚な着衣。纏め上げられた見事な金髪に、白磁の肌。 だが、碧玉の輝きを湛えているはずの瞳は、暗い金色に濁ったままだった。 「……セイバー、それ……！？」 尋ねながらも、顔は士郎の方を向いている。士郎は後悔を押し潰すかのように、拳を握り締めていた。 「……契約は、ちゃんと解除した。でも、完全に影響を取り払うことはできなかったんだ。桜は大丈夫だった。でも、セイバーは……」 はっと気がつく。 「──そうか。まだ正式なものではないといっても、セイバーは英霊。今の身体は霊体を骨子にしているんだから……」 生身の人間である桜と違い、残滓が残ってしまったのだ。 いや、動揺している場合ではない。凛はすぐに気を取り直した。慎重に、セイバーの身体を観察する。一通り把握して、安堵の息をついた。 「……良かった。ほんの微かな残滓が残っているだけじゃない。これなら、何も問題はないわ。そもそも、繋がりは完全に断たれてるんだし。……その、眼の ことは気の毒だけど、視力に影響したりはしないはずよ」 「ああ。セイバーはセイバーだ」 頷く士郎の言葉は、むしろセイバーに向けたものだろう。 だが、セイバーは力なく首を横に振る。 「私にはもう、シロウたちと一緒にいる資格がない」 「なんでさ！？ 資格なんて、そんなもの……！」 「触らないでください！」 士郎が伸ばした手から逃げるように、セイバーは土蔵の隅へと後ずさった。変化した瞳の色を恥じるように、深く俯いてしまう。 「……私は、嘘をついていたのです」 「──嘘？」 「──言ったはずです。貴方と交わした約束に、意味などないと」 凛の知らない話だ。 だが、セイバーのいう『約束』がなんであるかは、凛にとっても明白だった。あの日、凛の目の前で買わされた、衛宮士郎とセイバーの誓約。 セイバーは両手で、自分の肩を抱き締める。いや、まるで押さえ込むように指を立てていた。 「……答えなど、本当は、既に出ていたのです。ただ、それを理由としなければ、私にはこの時代に残る勇気がなかった。だから、自分を騙した。私は……」 そこまで口にして、セイバーは黙り込んでしまった。 口にしてしまえば、取り返しのつかないことになる。そう怯えているようだった。セイバーはさらに躊躇し、しかし最後には、押し出すようにして言葉を続け た。 「……私はただ、王の責務など関係なく、シロウと一緒に居たかっただけだ。──怖かった。そう認めてしまえば、私は王でなくなってしまうから。そのくせ、 私は貴方たちのためだけに生きることもできず……」 セイバーは絶望的な面持ちで、虚ろに笑った。 「泥に飲まれて、ようやく気づいた。私は……あなた達を愛するのと同じくらい……どうしようもなく、妬んでいたようだ」 「……っ！」 士郎が身を乗り出して何か口にしようとするのと、凛は腕をつかんで押し留めた。困惑はしたようだが、士郎はひとまず、静観することに決めてくれたよう だ。 それで良い。これ以上、この娘を甘やかしてなるものか。 「──原点に立ち返れば、自分を律することが出来るのではないかと思って、ここに来ました。──駄目だった。当然です、聖杯による影響など、ただのきっか けだ。全て、私の中に存在していたものなのだから」 声色に自嘲が滲んだ。臆病な猫のように影に沈んで、セイバーは淡々と言葉を吐き出していく。 「──凛、私がここで何を考えていたか分かりますか？ ずっと、こう思っていたのです。私がこんなに苦しんでいるのに、シロウは凛の側に いる。なぜ、私の側にはいてくれないのだろう、シロウと一緒に居たい──そんなことばかり考えていた。凛が傷つくことになったのも、シロウが魂を売り渡す ことになったのも、全て私の責任だというのに。私は醜い思いに心を惑わされるばかりで、何も……！」 ふっと、セイバーの肩から力が抜けた。 落ち着いた──というよりは、何かを諦めてしまった表情で、セイバーはそっと目元を撫でる。 「……今はまだ、自分に嫌悪を抱くことができる。しかし、それも時間の問題です。泥に馴染んでしまえば、私はきっと、あなたたちを不幸にする。だから…… 私は消えるべきなのです。凛、貴女ならば、私の分も彼を支えることができるはずだ」 ──『私の分も』？ カチンと、スイッチが入った。 よりにもよって、凛に対して「私の分も」などと言ったのだ、この娘は。 その上、『醜い思い』だと？ 冗談ではない。 それは、愛情というのだ。恋にも届かないほどに、純粋な。 ましてや、相手の女に嫉妬すらせず、ただ大事な人間に支えてもらいたい、それだけを願うような人間のどこが穢れているというのか。 それは、凛の思いすらも否定する言葉だ。 凛は、深く息を吸って覚悟を決めた。 「──いいわ。貴女の願いを適えましょう」 そう言って、仰天している士郎へと向き直る。 「士郎のことだから、セイバーに命令なんて出来ないでしょ。私が代わりにやってあげるから、契約破りの宝具を投影して」 「馬鹿、そんなこと！」 「士郎」 目を合わして、ただ一言。 それだけで、凛と士郎の間に何らかの了解が成立した。多分、彼は凛の考えなど読めてはいない。ただ、信頼してくれただけだ。──誇らしかった。 士郎は鮮やかな手順で投影を行い、前回のキャスターが手にしていた宝具を複製した。 受け取って、セイバーを見る。 彼女は──酷く傷ついた顔をしていた。 短剣を腰だめに構える。セイバーの身体が、びくりと震えた。彼女は狼狽して、士郎に助けを求めるかのような視線を送った。 「シ、シロウ、私は貴方に……！」 「──それじゃ、セイバー。さよなら」 セイバーの懇願を打ち消して、凛は床を蹴った。 一気に間合いを詰め、短剣を突き出す──セイバーの胸に向けて。 セイバーの金色の瞳に、戦場ですら見せたことのないほどの恐怖が浮かび、 「…………ほら。身体は正直じゃない」 なんだか危険な台詞だなと思いつつ、凛は微笑んだ。 短剣を持った右腕は、セイバーの手によって押さえ込まれていた。 「……え？」 セイバーはまじまじと自分の身体を見下ろすと、呆然としたまま凛を解放した。他人の身体を見るような目で両手を眺めてから、はっと我に返る。 「ち、違うのです、凛！ これは」 「──いい加減にしなさい」 また俯こうとするセイバーの胸元を、ぐいっと引き寄せた。 顔と顔を寄せ合って、金色の瞳を睨みつける。 「……言っとくけどね。私の頭の中が、善意で満ち溢れているなんて思うんじゃないわよ。そんなに……世界なんて怪しげなものに魂を売り払うぐらい大切にさ れてるくせに、自分だって消えたくなんてないくせに、何を暴走してるのよ、あんたは」 口にしているうちに、感情が高ぶってくる。 次第に怒鳴り声へと変わっていく口調を、凛は抑えようとは思わなかった。 「私の分も凛が支えてくれ？……ええ、代われるものなら代わってやるわよ！ でもね、私じゃ背負えない！ セイバーの代わりを出来る奴なんて、どこ にもいない！ 貴女は、最初っから士郎の中に食い込んじゃってるんだからっ。あの頃ならまだしも、今さらセイバーを失えるほど、士郎は強くない！」 激昂する凛を、セイバーは呆然と見上げている。何を怒られているのか、まったく理解できていない顔だった。 「一体、何を……シロウが愛しているのは、私ではなく凛ではないですか。貴女さえいれば、私など」 「──ああもう、どこまで馬鹿なわけ！？ ええ、そうよ。士郎が愛してくれているのは、私。当然でしょ。──でもね、セイバー。それなら、貴女は何？」 「……え？」 いよいよ訳が分からない、そんな顔を向けてくるセイバーに、凛は吐き捨てた。 「──私は、愛されていてこの程度なの。だけど、貴女は女として愛されてるわけでもないのに……士郎に、私と同じくらい大事にされているじゃない」 「…………あ。……いや、それでも。以前の私はどうあれ、今の私はもう」 「ふん。少しぐらい性悪になっても、士郎がセイバーを手放すわけないでしょ。見なさい」 セイバーを軽く突き放すと、凛は短剣を持ち直した。改めて刃を検分すると、おもむろに自分の腕に向かって突き立てる。 「な……！？ 馬鹿な、なんてことをっ」 血相を変えて凛の腕を覗き込んだセイバーは、やがてぽかんと口を半開きにした。 切り裂かれたはずの左腕には、傷口ひとつ見受けられなかった。 「……この宝具ね、外面だけの紛い物よ。万が一にでも契約を解除しないようにって、士郎が気をきかせたみたい。気がつかなかった？」 凛は短剣を無造作に放り出した。放物線を描いて床に落ちた短剣は、ガラスが割れるような音を立てて、あっけなく無に帰った。 セイバーは、呆然としたまま短剣の落ちた床を見つめ、やがて士郎へと視線を移した。 凛はセイバーの後ろに立って、彼女の耳に囁きかける。 「……どれだけ大事にされてるか、分かった？ あの馬鹿、私に全部任せたみたいな顔をしといて、こんな小細工をしてたのよ。まったく、許せないわ」 「……でも」 「黙りなさい」 セイバーにだけ聞こえるように、しかし声にありったけの力を込めて、凛は言った。 「……私の士郎の心を、こんなにも自分の物にしておいて……私じゃ絶対に手に入らないものを持ってるのに、怖くなって逃げ出すなんて認めない。あいつを悲 しませる権利なんて、セイバーにはないんだから。最後まで……ええ、そうよ。最後まで責任を取りなさい！」 「……しかし、凛」 セイバーは声と肩を震わせる。 「──教えてください。それなら私は……どうやって罪を償えば良いのですか？ シロウに死後を売り払わせておいて、自分だけ幸せになるなど、私には……」 「そんなの、簡単じゃない。──セイバーの全てをかけて、士郎を幸せにするのよ」 「……シロウを……幸せに？」 茫洋とした何かを見つめるように、セイバーが遠い目をして繰り返した。 「ええ。セイバーを助けて良かったって、士郎と……私が思えるぐらいにね。貴女にはその義務がある。それ以外の道は、私が許さない。……そうじゃないと、 私ひとりが損をし過ぎだもの」 凛は綺麗な金髪を、くしゃっと乱雑に撫で上げた。耳元で、こっそりと付け足す。 「それにね、ああいう顔をした男を置いていくのが、罪っていえば一番の罪じゃない？ 見なさい」 「────シロウ」 目にするのを恐れるように、セイバーの顔がぎこちなく上がる。 その視線の先では、つい先刻、運命をも変える英雄になったはずの男が、落ち着きもなく足踏みをしていた。 凛には、彼の考えが笑えるほど見事にトレースできる。 口出ししたい慰めたい弁解したいでも返ってセイバーを傷つけたらどうしようそれに遠坂に任せるって決めたんだ信頼しなくちゃ。 大切な人間の事となると、途端に臆病になる青年の姿がそこにはあった。 「──今回だけだからね。セイバーは、最初っから士郎の半分を独占してるんだから。だからこっちは、私のものなんだから。でも……今は、甘えてきなさい」 とんと、背中を押す。 それでもセイバーは駆け出したりはせず、ましてや士郎に飛びついたりはしなかった。 彼女はおずおずと士郎の前に進み出ると、上目遣いに彼の顔色を窺う。 ようやく出番を許された士郎は、凛には見せることのない温かな顔をして（差別だ）、セイバーの言葉を待っていた。 「シロウ……私は……貴方の側にいても、良いのでしょうか？」 「もちろん。俺は、遠坂とセイバーが揃ってないと、駄目なんだ」 「私は……貴方と凛の忠実な騎士でいられるかどうか、自信がない」 「俺が大切にしたいのは、セイバーって女の子だ。そんなの、全然構わない」 「今までのように自制をすることも出来ないかもしれません。きっと、凛よりも我侭を言うようになる」 「もう慣れてる。……いや、遠坂がどうこうって意味じゃなくて」 「それに、私が現界しているだけで、士郎と凛に負担を……」 「セイバー」 問題点ばかりを列挙するセイバーを、士郎が制した。セイバーがびくりと身をすくませる。 どう言えば良いものかと、士郎はしばし言葉を選んでいたようだったが、すぐに伝えるべきことを思いついたらしい。セイバーの手を握り締めて、照れ臭そう に微笑んだ。 「──約束しただろ？ 一生、俺の力になってくれるって」 セイバーが小さく息を呑み、そして、白磁の美貌にゆっくりと微笑みが広がっていった。まるで、固い蕾が花開くような、極上の笑顔だった。 「ええ……ええ。そうでした、シロウ」 凛には浮かべることの出来ない、無邪気な笑顔。その目元には、一滴の朝露がきらめいている。穢れているなどといったのは、一体誰だろう。 士郎と握り合った両手を、セイバーは胸元に引き寄せる。まるで、剣を持つかのように士郎の両手を掲げ、しかし剣霊としてのそれとは違う面持ちで、セ イバーは言った。 「……今ここに、改めて誓います。シロウ……この身は全て、貴方のために。私は、あらゆる脅威から衛宮士郎を守り抜く」 「──ああ。その代わりに俺も、セイバーに力を貸す。もう、一方的に守られるだけじゃない。俺も、お前を守ってみせる」 士郎とセイバーの視線が、熱く絡まりあった。例の、絶対的な信頼に裏打ちされた視線の抱擁である。 ──ああ、またやっちゃった。 頭痛すら感じて、凛は肩を落としていた。 ひょっとしたら自分は、士郎をも超えるとんでもない御人好しなのではあるまいか。 半ば諦めつつも、凛は目を細めてふたり（特に士郎）を睨みつけた。 「──で。ちょっと甘くした途端に目の前でプロポーズとは、衛宮くんは私に喧嘩を売っているわけね？」 凛の爽やかな声に、士郎は素晴らしい反応速度で身を翻した。セイバーの方は、名残惜しげな顔をしていたが。 「ばっ……！ 今のはだな、そーゆーんじゃないんだぞ！？ 俺とセイバーは一心同体というか、運命共同体というかだなっ」 「……なるほど。歳末バーゲン売り尽くしセールってわけ」 「だから違うっ！」 悲鳴を上げる士郎を無視して、ふんと鼻を鳴らす。 すっかり存在を忘れ去られていたのは不愉快だったが、まあ許してやろう。 その代わりに、凛は士郎の腕をぐいっと引き寄せた。そのまま、自分の腕と強く絡ませる。 「って、と、遠坂？」 「……む」 「そんな顔しても駄目。今だけって言ったでしょ、もう終わりっ」 恨めしげに睨んでくるセイバーを、思い切り見下してやる。 セイバーは名残惜しげに士郎の顔を見上げてみたり、凛に不満げな視線を寄越してみたりしたが、割り込むほど図々しくはなれないらしく（泥はどうした）、 結局、しぶしぶと引き下がって腰に両手を置いた。 ちょっとだけ怒っている模様。散々我侭を言った報いだ。良い気味である。 ──しかし、なるほど。こうしておけば良かったわけだ。 簡単な解決法をひとつ見つけて、凛は小さく笑った。 これなら、お互い様ではないか。 凛は、隣で身を固くしている士郎の腕を抱え込んだ。 きっと、相手に敵わないと思っているのは凛だけではない。この場所だけは、セイバーにも踏み込めない遠坂凛の聖域なのだから。 ふたりで背負っているものを、一人で背負おうと思ってしまうから具合が悪くなる。 確かに、本来ならば、セイバーか凛、どちらか一人で支えられるものだったのだろう。だが、ふたりはもう分け合ってしまったのだ。今さら修正することなど 出来はしない。 なら、開き直ってしまおう。一人で背負えるだけの物を、しっかりと抱え込む。残りは、もうひとりが支えれば済むだけの話だ。 「ま、士郎は許すまじとして、セイバーはそれで良いのよ。私が許す」 「……ほう。余裕ですね、凛？ 私はもう、今までの私ではないのですよ？」 セイバーは不敵な微笑を浮かべている。どうやら、士郎との絆を確かめ合った途端、吹っ切れてしまったようだ。現金なものである。 だが、まだまだだ。遠坂凛を怯ませるには及ばない。 「別に、貴女のためを思って言ったことじゃないわよ。ただ、セイバーと一緒にいるときの士郎が、私の一番のお気に入りだってだけのこと。……私じゃ、見ら れない顔をするんだもの。だから大目に見てあげる」 凛はにやりと笑って付け足した。 「──第一、士郎が私以外の女に目移りするわけないじゃない。友人関係ぐらいは、好きにさせてやるわ」 「……なるほど。結局、何もかもシロウ優先ですか。それが自分を不利にするとは考えないのが、まったくもって貴女らしい」 呆れたように息を吐きつつ、セイバーは口元を緩ませていた。そして、目を細める──睨みつけるのではなく、視線の先にあるものを愛でるように。 「……それではひとつ、こちらも秘密を打ち明けましょう。──私も、凛を愛でているときのシロウが、一番好ましいと思う」 「……結構、難儀よね。お互いに」 「まったくです」 ふたりで笑いあう。主従関係とも友人のそれとも違う、同胞意識のようなものが芽生えていた。同病相哀れむ、とも言うが。 さて、念のため。 どうやら地雷が埋設されているらしいと気づいて口出しできないでいる士郎に、凛は人差し指を突きつけた。 「ちなみに、士郎の方からセイバーに色目使うのは禁止だからね。押し倒したりしたら、いつだかの放課後の続きよ」 「ばっ……セイバー相手にそんなことするわけないだろ！」 「……む。シロウ、私とてこの身を安売りするつもりはありませんが……その『私相手に』という言葉は、何かの侮辱ですか？」 「いや、待てセイバー。別にお前が魅力的じゃないとかそういう意味じゃなくて、むしろセイバーは十分に可愛い……そっちも待て遠坂、話せばきっと分かりあ える。だからまず、左袖は下ろそう」 セイバーが腰に両手を当てて憤慨し、士郎はあたふたとご機嫌取りの算段を尽くし、凛は士郎を睨みつける。 睨みつけながら、やっとそれらしくなってきたと、凛は思っていた。 少しばかり以前とは違う関係になったが、この三人は、やはりこうでなくてはいけない。 凛はこっそりと微笑んだ。そして、セイバーの側に身を寄せて、彼女にだけ届くように囁く。 「──でもね、セイバー。私の士郎を分けてあげるんだから……ちゃんと、最後まで責任を取ってもらうわよ。あいつが私の手の届かないところまで行っちゃっ たら──その時は、貴女が私の分も支えなさい」 「…………凛」 驚きと──おそらくは恐怖にも似た感情に、セイバーが凝然と見つめてくる。その視線から逃れようと、凛はセイバーの手を取った。 「さて。流石にお腹が減っちゃったわ。士郎、食事の準備をしましょ。桜たちの分も作らなくちゃいけないから、いつもより手間がかかるわよ」 「っておい、遠坂はまだ動かない方が良いぞ。料理は俺がするからっ」 慌てて追いかけてくる士郎を尻目に、中庭へと飛び出す。 凛に手を引かれて歩きながら、セイバーが静かに口を開いた。 「──約束します、凛。いつか、残された最後の義務を果たした後には……この身は全て、シロウのために捧げましょう。何処までも、シロウを支え続けてみせ る」 「……当たり前よ。それが貴女の義務なんだから」 顔は前を向けたまま、凛は頷いた。 「──でも、ありがと」 セイバーが、ゆったりと微笑む。 「……私は果報者だ。流れ着いた時代で、最高の主達に出会うことができた」 「冗談。そんなの、幸福のうちに入らないわよ」 振り返って、セイバーの頭をこつんと小突く。 「貴女と士郎には、まだまだこれから幸せになってもらうんだから。この程度で満足されちゃ困るわ」 「……ええ、そうでした。それも、私たちの義務だ」 金色の瞳を細めて呟くセイバーの後ろに、いつの間にか士郎が追いついてきていた。手を繋いで歩く凛とセイバーを、とても満足そうに眺めている。 だから、凛も満足することにした。 ──まあ、問題はいつもあるし、気にいらないことだって山ほどあるわけだけど。 三人いれば、きっとなんとかなる。 少なくとも、絶望とだけは縁がないはずだ。 さあ、このふたりをどうやって幸せにしてやろう。 数十年分の計画を思い浮かべながら、凛は不敵な笑みを浮かべた。 |