２
「────くっ！」 干将莫耶が砕け散った。 振り切られた聖剣は、瞬時に切り返されて士郎の身体を切断しようと迫る。 即座に投影、完了。 新たな夫婦剣で、重い一撃を受け流す。 正面から受け止めたわけでもないのに、干将莫耶に亀裂が走った。頑強さでは上位の宝具にさえ劣らない夫婦剣が、三撃ともたずに崩壊していく。それだけ、 担い手の技量に絶対的な差があるのだ。 必死になって次の投影を紡ぐ。砕かれる。さらに次の投影を、次の次の投影を──！ 綱渡りのような戦闘は、すぐに破綻した。バランスを崩した士郎に、致命的な一撃が加えられ── 「──あああああああ！」 間一髪で、投影が間に合った。 複製されたものは、夫婦剣ではなく豪奢な柄を持つ西欧の剣。この三年間で存在を知った、セイバーの運命を変えた選定の剣だ。 「──私の、剣！」 セイバーの僅かな動揺と、剣に刻まれたセイバーの経験が、士郎を救った。だが、干将莫耶ほど使い慣れていない宝剣は一撃で砕け散り、セイバーの魔力放出 の余波が士郎を吹き飛ばした。 ごろごろと地面を転がって距離を取りながら、呻く。 （──くそっ。いくらなんでも、こんなの出鱈目じゃないか） 彼女と互角に戦えている、そう喜ぶことができたのも、ほんの数秒の間だけだった。互角に見えた形勢は即座に傾き、士郎は何度も死神に背中を撫でられる羽 目になった。かろうじて命を拾い続けることができたのは、後先を考えずに投影を乱発したからに過ぎない。 無様に息を荒げる士郎を、セイバーが冷たく見下ろしている。瞳の中に、微かな感情の揺らぎが現れていた。あれは、苛立ちだろうか。 「──シロウ。今の戯れは、一体なんの冗談か」 「……冗談も何も」 あれが、士郎の精一杯だ。それは、師であるセイバーが一番良く分かっているだろうに。 セイバーは、排除すべき敵に過ぎないはずの士郎を、叱り付けるかのような強い視線で睨みつけてくる。 「そのような中途半端な戦い方では、私に傷ひとつつけることは出来ないと言っているのです。……貴方は何のために戦ってきたのか、シロウ。正義を貫き、桜 を助けたいと思うのなら。私を殺すつもりで剣を振るいなさい」 「…………それは」 士郎は息を呑んだ。 セイバーの言っていることは正しい。 元々、分のない戦いなのだ。なんとか逆転しようとするのならば、全力をもってぶつかり──運良く彼女が生き残るような、そんな結果を期待するしかないだ ろう。 だが── 「……冗談じゃない。お前を殺すつもりで戦うなんて、そんなの問題外だ」 そうだ。そんな選択肢、最初から存在すらしていない。 なぜなら。 「覚えてるよな、セイバー。俺を最後まで見届けて──その代わりに俺の力になるって言ったこと。あの約束は、まだ有効なんだ。最後まで、ちゃんと守っても らうぞ」 「──約束？」 意表をつかれたように、セイバーの目が丸くなった。一瞬だけ、いつものセイバーの姿が黒い騎士と重なった。セイバーはすぐに無表情に戻ると、目を閉じ る。 「──馬鹿なことを。あの約束には、最初から意味などない」 「……は？」 今度は、士郎の方が目を丸くした。今はもう意味がない、そんな答えは予想していたが──「最初から」とは、一体何のことだ？ 混乱する士郎を見て、セイバーは口元をわずかに歪ませる。 どこか、自嘲に似ていた。 「そう、貴方が気づくはずもない──私自身さえ騙しきった嘘なのだから」 「……何を言ってるんだよ、セイバー。だって」 約束したのだ。 あの赤い弓兵が見出したという、セイバーの間違い。士郎もいつか辿り着くであろうその答えを、セイバーに伝えると。その代償として、セイバーは衛宮士郎 の剣で在り続けると。 マスターもサーヴァントも関係ない、衛宮士郎とセイバーが交わした、神聖な誓い。それは、士郎の誇りだった。 その誇りを、当の本人が否定している。 困惑する士郎を、セイバーはただ濁った瞳で見つめ返していた。 「──いずれにせよ、今となっては意味のない昔話だ。この場で、貴方は死ぬのですから。ただ、ひとつだけ確実なことは……」 冷たい仮面を被り直す瞬間、セイバーの顔に生の感情の動きが垣間見えた。 後悔。 「──シロウ。私は、この時代に残るべきではなかった」 冷たく囁いて、セイバーは間桐桜のサーヴァントに戻った。 士郎は動揺していた。 セイバーは何か、とても大事なことを伝えようとしていたのではないか。 そして士郎には、彼女の思いを知る義務があると感じた。ならば、セイバーと交えるべきなのは剣ではない。 それでも、桜を、世界を、セイバーを救うためには剣が必要なのだ。 迷いながらも魔術回路を起動しようとしたところで、空洞が小さな振動に見舞われた。 「これは……」 「──凛たちが、桜と戦い始めたようだ」 セイバーの言葉に、迷いに萎えかけていた精神力が少しだけ力を取り戻す。 セイバーはちらりと洞穴の奥に目をやり、つまらなそうに視線を戻した。 「……貴方に戦う意志がないというのならば、私は桜の元へ戻らなくてはならない。──凛と戦うために」 「──な」 息を呑む士郎に、セイバーが酷薄な眼差しを向ける。戦おうとしないお前には関心が無い、そう言わんばかりの視線だった。 「私が桜の元へ合流すれば、凛たちに勝ち目はないでしょう。──安心しなさい。桜には、凛を殺すつもりなどありません。命だけは、助かるでしょう。…… もっとも、その後に与えられるものは、無限の苦痛と快楽だけでしょうが」 「──っ！」 悩んでいる場合ではない。士郎は、再び干将莫耶を投影した。 しかし、この剣ではセイバーに届かない。いや、真っ当な戦いで彼女に勝利することは不可能だ。 彼女に勝とうというのならば、向き合うべきは己自身となる。その先には、最強の幻想が存在し得るはずだ…… セイバーを殺せるほどの。 ──くそ、俺はそんなものを引き上げて、どうするつもりだ？ 苦悩する士郎の思いも知らず、セイバーが剣を構えなおした。 「剣を握りましたね、シロウ。武装している以上、貴方は私の敵だ」 「……セイバー、俺は！」 士郎の叫びを拒絶するように、セイバーの手の中で聖剣が脈動した。 放たれる圧迫感に、戦意が悲鳴を上げる。 「──せめてもの情けだ。凛の苦しむ姿を見ることがないよう、私の手でその命を絶つ」 黒き聖剣が、光を放ち始める。今も昔も変わらない、騎士王の切り札だ。 死ぬ。 あんなものを食らったら、絶対に死んでしまう。鉄壁を為す盾の宝具でさえ、あの幻想の前では紙屑に等しい。 死んでしまえば、桜を救うことが出来ない。桜を救うことができなければ、世界が終わる。数え切れない人々が、理不尽な死を突き付けられることになる。 そして、ライダーも、慎二も──誰よりも、遠坂凛が地獄を見る。 ならば、為すべきことはひとつだけではないのか？ 衛宮士郎は──正義の味方なのだから。 「──シロウ」 輝く剣を構えながら、セイバーが士郎を見つめていた。暗く澱んでいてもなお透明な、悟りきった──あるいは諦めきった瞳をしていた。 「シロウは──私に、貴方を殺せというのですか？」 彼女の言葉が、最後の一歩を踏み出させた。 撃鉄が落ちる。 「──投影……開始！」 ２７の魔術回路に、士郎は全力で魔力を注ぎ込んでいく。 「…………がっ！」 あまりの負荷に、一瞬で限界を超えた。 魔術回路が加熱し、頭脳は悲鳴を上げる。 それだけは無理だと、お前には分不相応だと、複製者たる士郎の本能が警鐘を鳴らしていた。 構わずに、全ての工程を走り抜ける。 右手に、幻想が像を結び始めた。 その輪郭を目にしたセイバーの顔色が変わる。 「────その宝具は！？」 驚愕しながら、セイバーは聖剣の力を解放した。 セイバーの身体に満ちる膨大な魔力が、黒化した聖剣へと注ぎ込まれていく。刀身から、黒い極光が溢れ出す。 「──投影、完了」 その光景を睨みつけながら、士郎は投影を完成させた。 円柱状の形を持つ異形の物体。だがそれは、剣だった。 神話の時代、世界をも切り裂いたとされる剣。今まで目にした剣の中で、唯一、衛宮士郎の世界に存在していない、絶対にして完全な神なる剣。 乖離剣・エア。 あの英雄王が手にしていた、最強の宝具だった。 投影の反動が、士郎の魔術回路を断線させていく。残された時間は、あまりにも少ない。 残った魔術回路に魔力を注ぎ込みながら、士郎は乖離剣を振り上げた。 「“天地乖離す──」 刀身を構成するパーツが回転数を高め、人知を超えた烈風を巻き起こす。極限を超えて高まった風圧は、世界をも切断する刃となって、乖離剣から噴出してい く。 「“約束された──」 セイバーもまた、聖剣を振りかざした。 刀身を包み込んだ極光は、それ自体が巨大な刀身であるかのごとく、熾烈な輝きをもって宙を裂いた。まるで、黒い十字架のように。 士郎は、乖離剣を振り下ろした。 「──開闢の星”！！」 セイバーが、聖剣を振り下ろす。 「──勝利の剣”！！」 激突した。 閃光が、旋風が、魔力を撒き散らしながら正面からぶつかりあう。 「──セイバァァァァァ！」 「シロウ──ッッッ！」 二人の叫びもまた、ぶつかり合う。 断層が極光を切り裂き、極光が断層を塗りつぶす。 ふたつの宝剣の衝突は、ほぼ互角の状態にあった。 本来ならば、乖離剣の力は聖剣のそれに勝っているはずだ。だが、士郎の投影では、乖離剣の性能を十全に再現し切れていない。 一方、今のセイバーは無限の魔力を持っている。このまま消耗戦になってしまえば、士郎に勝ち目はない。 一気に押し切ろうと魔力を込めると、不意に喉の奥から熱いものが遡ってきた。 吐血する。 （──しまった！） 集中が途切れる。瞬間、黒い極光が旋風を押し返そうとするはずだった。 だが、士郎を飲み込むはずの閃光は、逆にいくらか力を失い、乖離剣の断層に引き裂かれ始める。 状況をつかめないまま、判断だけを先行させ、士郎は乖離剣に最後の魔力を注ぎ込んだ。 世界を断つ風が、セイバーに向かって襲いかかっていく。 セイバーに。衛宮士郎の半身に。遠坂凛の親友に。大事な大事な、士郎の家族に。 一瞬のうちに、美味しそうにご飯を食べる姿だとか、道場に正座をしているときの凛とした佇まいだとか、ムキになって士郎を怒鳴りつけるときの顔だとか が、脳裏を埋め尽くしてしまい── 士郎は、ああこれは駄目だと諦めることにした。 酷い有様だった。 まったく、まだ生きているのは奇跡のようなものだ。威力が拮抗していたおかげで、力の大半が打ち消されていたのだろうが──変わり果てた空洞の様子を目 にすると、五体満足でいるのが不思議に思えてくる。 もっとも、深刻なのは身体の内側の損傷だった。魔術回路は焼け付き、意識はまともに焦点を合わせようとしない。魔術師としてはスクラップ寸前だ。 「……いたた」 人形のように地面に倒れながら、士郎は苦痛に顔を歪める。激痛が走る左腕を騙し騙し使いつつ、上半身を起き上がらせた。 「──なぜ止めたのです、シロウ！」 たちまち、激昂したセイバーに怒鳴りつけられてしまった。 そこまで怒らなくても良いだろうに、と思う。セイバーには大した怪我はないようだし、士郎だって死ぬほどの負傷を負ったわけではないのだから。 ──というか。ちゃんと、怒れるんじゃないか。 ぼんやりと考えながら、士郎は穏やかな表情でセイバーを見つめた。 「そんなの、決まってる。さっきも言っただろ。俺に、セイバーを殺せるわけがない」 「──その目だ、シロウ！」 感情を凍りつかせているはずのセイバーが、顔を大きく歪ませた。 「貴方はいつもそうやって──温かいだけの瞳で、私を見る！」 吐き捨てるセイバーは、士郎の目には今にも泣き出しそうに見えて──だから士郎は、やっぱり彼女を取り戻さなければならないと確信した。 女の子を泣かせてしまったときは、とにかく全力で笑顔を取り戻させろというのが、衛宮切嗣の教えのひとつだったから。 「……最後のチャンスだったというのに。これで私は、貴方を殺さなくてはならなくなった。──貴方のことを本気で憎いと思うのは、これが最初で最後です、 シロウ」 全てを諦めきった顔で、セイバーは冷たい破壊衝動に身を委ねた。 士郎はゆっくりと首を振る。 「そういうわけにはいかない。俺はまだ死ねないし──セイバーには、後でたっぷりと怒ってもらわなくちゃならないんだからな」 「戯言を。……やはり。私は、この時代に残るべきではなかった」 セイバーは、士郎を斬り捨てようと剣を振り上げ。 「───っ！？」 不意に表情を変えると、大きく跳び退った。 「シロウ…………いったい、何を」 「……何もしてないさ。今はまだ」 士郎は穏やかに答える。 ──万策は尽きた。 士郎にはもはや、セイバーを止める術が残っていない。 たったひとつを犠牲にして、他の全てのものを救う。 その唯一の機会を、士郎は自らの手で閉ざしてしまった。 だから、何も救えない。何も犠牲にせずに、誰かを救うことなど出来はしない。正義の味方は、万人の味方とはなりえない。 『──理想に溺れて、溺死しろ』 昔、そんなことを言った男がいた。 この結末が、あいつの予言していた終焉の形なのだろうか。 もちろん、士郎は認めない。 これが、避けられない運命だというのならば── その運命を、衛宮士郎は変えてみせよう。 士郎は、そのために必要な言葉を紡いだ。 ３
己の身に湧き上がる戦慄を、セイバーは持て余していた。 もう、衛宮士郎には何も残っていない。勝敗は決したはずだ。 だが──この得体の知れない圧迫感は何だ？ まともに立つことすら覚束ないはずの青年が、地に両手をつく。膝をつき、上体を持ち上げ── 不意にセイバーは、彼が認めがたい愚行に走ろうとしていることを直感した。 恐怖する。剣士として──女として。 だから、この身に許される唯一の方法で彼を停止させることにした。 聖剣に、再び魔力の光りが灯る。さきほどから、桜からの魔力供給が不安定になっているが、脆弱な人間を滅ぼすには何の問題もない。 「────“約束された勝利の剣”！」 真名と共に、黒き閃光が迸った。閃光が、士郎の身体を包み込む。 ──終わった。 凍りついた精神で、小さな虚脱感と安堵を感じた。 「──なっ！？」 次の瞬間、セイバーは驚愕していた。 士郎の目前で、エクスカリバーの閃光が遮断されている。士郎が手をかざす先にあるもの、極光を退けているそれは── 「──聖剣の……鞘？」 “全て遠き理想郷”。 セイバーの追い求めていた理想の具現が、衛宮士郎を守っていた。 ──ああ。やはりシロウ、貴方は── エクスカリバーが魔力を放出しきって、沈黙した。 士郎は即座に干将莫耶を投影、セイバーに向かって突進してくる。 「──鶴翼 欠落ヲ不ラズ」 まるで別人のような、鋭い動きだった。 いや──事実、もう彼は別人なのだろう。 セイバーをも驚嘆させる速度で疾走しながら、士郎は双剣を投擲した。 魔力を込められた刃が、セイバーの身体をめがけて弧を描く。 「……ちっ！」 左右からまったく同じタイミングで襲い来る宝剣を、セイバーは一振りで叩き落した。 武装を失った士郎は、しかし勢いを殺すことなく、間合いを詰めてくる。 「──凍結、解除」 再び、二振りの名刀が士郎の両手に現れる。 士郎を迎え撃とうと腰を沈ませると同時に、セイバーの脳裏を鋭い危機感が走り抜けた。 「──心技 泰山ニ至リ」 ────！ 直感に従い、セイバーは背後へと剣を振るった。 致命的な角度から襲い掛かろうとした莫耶が、鈍い音を響かせて弾き飛ぶ。その瞬間には、士郎が干将を突きこんでいた。前後から同時に襲い来る、必殺の連 携。 だが甘い。瞬時に引き戻した聖剣で、干将を粉砕した。 「……この程度では、私には届かない、シロウ！」 ──殺し合い、殺し合いのはずだ。 だが、セイバーの凍れる心は喜びに沸き立っていた。 彼は、ついに限界を超えてしまった。今の士郎と互角に戦うことができるのは、セイバーだけだろう。 ゆえに、ここはセイバーと士郎の世界だった。誰も入り込めない。今この瞬間だけ、衛宮士郎はセイバーのものだった。 「──心技 黄河ヲ渡ル」 再び、背後から飛来する干将。同時に打ち込まれる、莫耶。三度目の同時攻撃。 筋力で慣性を捻じ伏せて、半回転。二刀をまとめて弾き飛ばす。 体勢を崩しながらも、セイバーはその致命的な攻撃を防ぎきっていた。 これで、互いに手詰まりだ。セイバーは大きな隙を見せ、士郎もまた武器を失っている。 だがセイバーは、彼にはまだ、この先があるのだと確信していた。 「──唯名 別天ニ納メ」 ──ここまでか。 セイバーは悟った。 今度こそ彼は、セイバーを許さないだろう。 主に剣を向けたばかりか──その上、彼に最悪の道を選択させてしまったのだから。 だからこれは、自業自得。いや、この身に余る最期だとすら言えた。 彼の剣に貫かれ、あの丘へ帰ることができるのだから。 「──だけどな、セイバー」 「え？」 だが、打ち込まれるはずの名刀は、士郎の手にはなく。 その代わりに、彼の右手には歪んだ刀身を持つ短剣が握られていた 「俺の世界には──セイバーを傷つけるための剣なんて、一振りだって存在しちゃいないんだ」 とん、と。 胸に突き刺された短剣の感触は、攻撃と呼ぶにはあまりにも優しすぎて── セイバーは、泣きたくなった。 ──ああ、くそ。あと少しだったのにな。 朦朧とする意識の中、凛は歯噛みをしていた。 かなり、善戦したと思う。 なんとか桜を正気に戻したところまでは良かったのだが、成長した“この世全ての悪”は、マスターを奪おうとする者たちを許そうとはしなかった。無限の魔 力をかさにきて襲い掛かる巨大な影を相手に、ライダーと凛は必死になって戦った。 なんとか、ライダーの天馬を使って桜を離脱させるところまでは成功したのだが── 凛本人は、あと少しで大空洞を抜け出せる、というところで、虎の子の宝石を使い果たしてしまったのだ。後はどうしようもなかった。ほんの一瞬、影が身体 をかすめただけで、この有様だ。 まったく、ルヴィアに頭を下げてまで用意した戦力だというのに、後一歩が及ばないとは。 自分らしいと言えば自分らしい、と凛は苦笑した。 ──まあ、最悪の事態だけは免れたわけだし。犠牲が一人で済むのなら、僥倖よね。 魔術師としての凛は、それなりに満足していた。冬木の管理者として、最低限の責任は果たすことができたのだから。 心残りは多いが、なんとか我慢することができた。唯一気になるのは、士郎のことだ。あのお人好しの面倒を最後まで見られないのは、とても残念だった。 だがそれも、思い詰めるほどのことではないのかもしれない。この数年で、凛は士郎に人生の楽しみ方を叩き込んだつもりだし── なにより、士郎はあの少女を取り戻しているだろう。セイバーならば、間違いない。彼女ならば、士郎を間違った道に導くことなど、ありはしない。 ──セイバーは、衛宮士郎の掛け替えのない半身なのだから。 大きな信頼感と、小さくはない嫉妬を感じながら、凛はにじり寄る地獄の気配に身をすくませて── 「──I am the bone of my sword──」 あの詩歌を、耳にした。 ──馬鹿。遅すぎるわよ！ 胸が歓喜に湧き上がる。 「──風よ！」 そして、聞き慣れた少女の声。 疾風が吹き抜け、凛を取り囲む汚濁にまみれた気配を吹き飛ばす。 その間に、士郎の呪文は終わりを告げ、世界が反転した。 凛は、重い身体を叱りつけ、なんとか顔を上げる。 ぼやけて良く見えない視界の先に、剣の丘が広がっていた。ただ剣だけが存在する、救いようのない光景。だが、ここは衛宮士郎の世界だった。 だから、もう大丈夫だ。 士郎が、セイバーが来てくれた。 私たち三人が揃ったのならば、何も恐れるものはない。 それが、遠坂凛の持つ唯ひとつの信仰だった。 無限の剣が、巨大な影を切り裂いていく。恐らく、既に桜との繋がりが破棄されていたのだろう。“この世全ての悪”の分身たちは、次々と消滅していった。 「──セイバー。終わらせよう」 何処からか、士郎が静かに命を下した。 彼女が頷き返す気配を感じる。 そして、眩い閃光が朦朧とした視界を染めた。 ただの一撃で、アインツベルンの、マキリの、遠坂の二百年は、あっさりと終焉を迎えた。 こんなにも軽い、二百年。 ならきっと、最初の一歩から間違っていたのだろう。 だが、狂った聖杯のことなど、もうどうでも良かった。 闇に落ちようとする意識を繋ぎ止めて、凛は不出来な弟子を褒めてやろうと笑顔を浮かべ── 「……あれ？」 キョトンとして、目を見開く。 一瞬、自分がどの空間、どの時間にいるのか分からなくなった。 だって、あいつとはもう、ずっと昔に別れたのだ。こんな場所で、また顔を合わせるはずがない。 なら、自分は今どこで、誰を見ているのだろう？ 「──遠坂」 凛を労わるような、だがどこか後ろめたそうな微笑みを浮かべて、彼が近づいてくる。 赤い外套は、凛がプレゼントしたものだった。この戦いを勝ち抜くためには必要だろうと、ルヴィアにも手伝わせて作り上げた、自慢の品だ。 しかし──凛を抱き上げる、彼の顔は。 「────この、馬鹿」 泣き声じみた罵声を浴びせる。 絶望しながら、凛の意識は闇の中へと落ちていった。 |