Fate／eternal ties
１
第六回聖杯戦争は破綻しようとしていた。 わずか、３年。 あまりにも早すぎる聖杯の再臨は、システムの管理者たるアインツベルンにさえ十分な対応を取らせなかった。それが、間桐臓硯の暗躍を助長することになっ たのは、疑いようもない。 混乱に包まれた聖杯戦争において、士郎と凛は全力を尽くした。今度こそ、あの邪悪な聖杯を消滅させるために、前回の聖杯戦争で得た経験を生かして戦っ た。 新たなマスター、新たなサーヴァント。決して楽な戦いではなかったが、事態は良い方向へ向かっていると二人は確信していた。 甘かった。 二百年を超えて生き続けた怪老は、己の孫たちを利用して立ち回り──ついには、聖杯の器として改造した桜を手にして、今まさに大聖杯の扉を開こうとして いる。 そう、聖杯戦争が破綻したというのなら、それは、聖杯の中に潜む存在が呼び出されてしまった瞬間から始まっていたのだ。 “この世全ての悪”。 地獄が、生まれようとしていた。 「──覚えのある感覚だわ。全然、懐かしくないけど」 大聖杯へと続く洞穴は、命の穢れに埋め尽くされていた。祝福されるべき生への賛歌も、ここまで生々しいと呪詛と変わらない。 その中を掻き分けるように進みながら、遠坂凛が吐き捨てた。前回の聖杯戦争で味わった経験を思い返しているのだろう、彼女の口元は苦々しく歪んでいる。 「──遠坂は一度、あれの中に取り込まれかけてるもんな。大きな影響を受けなきゃ良いんだが……大丈夫か？」 自身も吐き気を堪えながら、士郎は凛に問いかけた。 「問題ないわ。逆に、抵抗が付いてるぐらいよ。──それより、私のことは良いから、もっと自分のことに集中しなさい。私たちにはもう、余裕がないの。いつ もの甘さを見せてると、死ぬわよ」 首を左右に振りながら、凛が軽く睨みつけてくる。士郎の相棒は、いつでもこうして出来の悪い弟子を気遣ってくれるのだった。 「……そうだった。気をつける」 分かっている。こちら側のマスターは既に全員、サーヴァントを失っている。協力者となった慎二も、先の戦いで戦線を離脱してしまった。残るマスターは、 全て敵なのだ。 だが、状況は最悪というわけでもない。 士郎は最後尾を歩く女性に目を向けた。 「──なにか？」 流麗な肢体を黒い装束で包み込んだ女性が、眼帯に隠された瞳で士郎を見やる。かつては敵で、再び現界を果たし、今は友軍となっている騎兵の英霊。 「いや。ライダーが力を貸してくれて、良かったと思っていただけだ」 「……そうですか。ですが士郎、私が助力をするのは、貴方がサクラの味方である間だけだということを忘れないでください。士郎は、最悪の事態を避けるため になら、サクラを害することも厭わないでしょう？ そうなった場合、私は貴方を排除します」 どこまでも上品な口調で、ライダーは「必要ならば貴方を殺す」と言ってのけた。 士郎は断固として首を横に振る。 「そんなことには、ならないさ。全員、家に帰してみせる」 「──甘いですね、士郎。……ですが、そんな貴方だからこそ、可能性があるのかもしれない」 一瞬だけ、ライダーの口元に笑みがこぼれた。とても綺麗な微笑だった。 どこか、彼女に似ていると士郎は思う。 「そのためにも、約束通りに頼む。彼女とは──」 「分かっています。利口な判断だとは思えませんが……約束は守りましょう。もちろん、そちらにも契約を果して頂かないと困りますが」 「分かってる」 士郎はライダーと、物問いたげな眼差しを送ってくる凛に向かって、約束した。 「──ちゃんと、生きて追いつくさ」 凛が満足そうに目を細め、ライダーは当然だと言わんばかりに頷きかけ、 「────そう願いたいものですが。やはり、勝算の高い賭けだとは思えませんね」 声に緊張を滲ませながら立ち止まった。 最高の魔眼と最強クラスの宝具を持つ、あのライダーが戦慄している。 通路を抜けた先には、広大な空洞が開けていた。 空気は相変わらずの生気に満ちているが、岩石の広がる無機質な光景からは、生命の気配が一切感じられない。どこか、月面の風景に似ていた。 その中央に、彼女がいた。 ただ立っているだけで、その身体からは支配者然とした威圧感が吹き出ている。 白銀の鎧を漆黒に変え、清浄な眼差しを穢れに澱んだ瞳へと変えた彼女は、いまや名実ともに最強のサーヴァントとなった、剣の英霊。 士郎と凛が失った、掛け替えのない大切な少女── 「────セイバー」 変わり果てた少女の姿に、士郎は唇を噛む。 衛宮士郎の半身が、絶対の殺気を纏って立ち塞がっていた。 「────セイバー」 万感の思いを込めて口にした名前も、彼女には何の感銘も与えなかったようだ。 セイバーは無言のまま、無表情に立ち塞がっている。“この世全ての悪”の力に穢され、桜の下僕となったセイバーは、もはや衛宮士郎の敵でしかない。彼女 はそう自任にしているだろう。 そして、士郎はそれを否定しに来たのだ。 「──大人しく私のサーヴァントに戻ってくれる……つまりはなさそうね」 億劫そうに言って、凛が懐に手を差し込む。そこには、魔力の蓄えられた宝石が詰め込まれているはずだ。 「待ちなさい、凛」 セイバーが初めて口を開いた。 以前と変わらない落ち着いた声で、静かに凛を制する。 「桜の命ゆえに、伝えておきましょう。私には、貴女と戦う理由がない。この場を通る者は全て排除しろと命じられていますが、その対象に貴女だけは含まれて いません。──無論、貴女から手を出した場合には、その限りではありませんが」 「──そう。桜は、私に会いたがっているわけね」 凛は表情を厳しくした。一瞬、躊躇するように瞳を揺らした後、凛は決然とセイバーを睨み返す。 「だけど、桜には少しだけ待ってもらうわ。先に、恩知らずのサーヴァントを躾けておかないとならないもの」 「──いや。遠坂は、先に行ってくれ」 「士郎！？」 士郎の言葉に、凛が仰天して声を上げた。信じられない裏切り者に対するような目で、士郎を見る。 士郎は首を左右に振って、端的に言った。 「……このままじゃ、きっと桜がもたない」 「────っ」 凛も感じていたのだろう、言い返そうと開きかけた口が、すぐに閉じてしまう。 空洞に満ちる魔力は、臨界点を越えようとしていた。今の桜には、手を差し伸べてくれる人間が必要だ。誰かが、少しでも早く彼女の元へ辿り着かなければな らない。 凛の顔に逡巡の色が過ぎった。決断しかねるように、士郎の顔色を窺ってくる。 士郎は軽く微笑んで、凛の視線に応えた。 「大丈夫だ。すぐに、追いつく。──セイバーと一緒にな」 「──いいわ。信用してあげる。でも、約束を破ったら酷いんだからね」 ふん、と大きく顔を背けながら、凛は言ってくれた。 一度決心したら、凛の行動は早い。彼女は早足に、空洞を奥へと進んでいった。 凛とセイバーが擦れ違う。二人は、何も言葉を交わさなかった。 空洞を抜け、奥へと続く洞穴に差し掛かったところで、凛は一度だけ振り返った。大声で叫ぶ。 「──分かってるわよね！？ セイバーは私のサーヴァントなんだから！ ちゃんと、返しなさいよ！」 「──ああ！」 大きく頷く士郎に満足げな笑みを浮かべて、凛は歩み去っていった。 セイバーが、氷の美貌を険しくして、叱り付けるように口を開く。 「……馬鹿なことを。ひとたび剣を交えたら、余分なことは考えるなと教えたはずだ。──いや。今の私には、もう関係のないことでした。貴方を、排除する」 師弟の繋がりを無感動に捨て去り、セイバーが黒く染まった聖剣を構えた。 吹き出る殺気に、士郎は本能的に戦闘態勢を取っていた。士郎を庇うように、ライダーがセイバーの前へと進み出る。 士郎に背を向けたまま、ライダーが言った。 「──凛を戦力に数えることは出来なくなりましたが、変更はなしで構わないのですね？」 「ああ。ライダーは、ライダーの目的のために動いてくれれば良い」 「──止めても無駄なのでしょうね。私との契約を裏切らないように期待します。……それでは、打ち合わせたとおりに」 ライダーが両の眼を開放する。 魔眼の力がセイバーを縛った瞬間、ライダーは地を蹴っていた。 超人的な機動力が生み出した一撃を、セイバーは真正面から打ち返した。魔眼の力で動きが鈍っていてもなお、彼女の戦闘能力は圧倒的だ。 ライダーはその瞬発力と技巧をもって、セイバーは膨大な魔力が生み出す膂力と破壊力をもって、互いを討ち取ろうと剣を交える。 セイバーの意識がライダーに集中している隙をつき、士郎は駆け出した。一直線に、洞穴の奥へと向かって。 「────むっ！」 士郎の行動に気づいたセイバーは、襲い掛かるライダーを弾き返し、士郎へと意識を向けた。だが、さすがのセイバーも、ライダーに背を向けることは出来な い。 ほんの刹那の逡巡を狙い、士郎は魔術回路を起動していた。素早く振り返り、呪文を紡ぐ。 「──I am the bone of my sword──」 螺旋を描く名剣が、士郎の右手に生まれ出でる。 左手に生み出した弓につがえ、放った。 セイバーの足元に突き刺さった幻想は、即座に自壊。存在力を破壊力に転化され、爆炎を撒き散らした。 機を逃さず、ライダーが宙を舞った。天井を蹴りつけて反転、士郎の背後に降り立つ。 「──ご武運を」 そう言い残して、ライダーは桜のもとへと去っていった。 まずは安堵する。これで、桜の事は任せておける。士郎は、セイバーのことだけを考えていれば良い。 ──いや。他の事を考えている余裕など与えられない、と言うべきか。 爆炎の中から、ゆっくりと歩み出てくる黒い騎士を、士郎は戦慄とともに迎えた。 「見くびられたものだ。独りで私に立ち向かおうとは……いや、これも最初から分かっていたことか。勝算が少なくとも、全てが救われる道を取る。貴方はそう いう人間でしたね」 セイバーの鎧には傷ひとつ付いていない。直撃しないように放ったとはいえ、予想を上回る強固な守りだった。 動揺を顔に出さないようにと苦心しながら、士郎はにやりと笑ってみせる。 「そっちこそ、遠坂たちを追わなくて良いのか？ 通すなって命令されてるんだろ？」 「貴方相手に背を向けるほど愚かではない。シロウを排除してから追いかければ済む話だ。それほど時間はかからないだろう」 「それは、どうかな？」 不敵に笑いながら、心中で舌を打つ。 必要なのは、一瞬の隙だった。これでまたひとつ、勝機が減ったわけだが── 正直に言えば、少しだけ嬉しかった。セイバーは、士郎のことを油断ならない敵だと認識している。戦士として、これに勝る喜びがあろうか。 だが、衛宮士郎は生粋の剣士ではない。そして、彼女は剣の英霊、セイバー。彼女に勝る剣士など、この世界に存在していない。 ならば── 「俺だって、剣でセイバーに勝てるなんて思っちゃいないさ。俺は、俺の戦い方をするだけだ」 そう、衛宮士郎の取るべき道はただひとつ。いつも変わらない、己との戦いだ。 「……なるほど。だが──その考え自体が思い上がりなのだと、その身をもって知るが良い」 セイバーが聖剣を構える。 それだけで、士郎の身体は恐怖に震えた。今から士郎は、自身が知る最高の剣士と戦わなければならないのだ。 「──投影、開始」 両手に、もっとも使い慣れた夫婦剣を投影する。 “無限の剣製”は、あえて使用しない。修練を積んだ今でさえ、固有結界は手に余る禁呪だ。厳しい戦いを強いられるであろう凛に、大きな負担をかけるわけ にはいかない。 それに、相手はあのセイバーなのだ。使い慣れない剣を無限に揃えてみたところで、扱いきれるはずもない。 だから、そのつどに必要な投影を紡ぎ出していく。 常に用意しておく武装はふたつだけ。 この、衛宮士郎を象徴する陰陽の剣。そして、彼女を解き放つための、最後の一振りだ。 「準備はできましたか？ ならば、かかってきなさい、シロウ」 さもなければ、こちらから斬りかかると。 無言の宣告に、士郎は干将莫耶を握り締め、彼女と対峙した。 一瞬、いつもの鍛錬をしているかのような錯覚を覚える。 だが、この戦いにやり直しはない。敗北すれば、士郎は全てを失い──勝利してもまた、かけがえのないものを失うのだ。 ──ならば。 誓いの呪文のごとく、背走もなく勝利もない戦いを演じるのみ。 「──いくぞ、セイバー」 いつものように士郎は踏み出した。 |