7 



 今度は、数秒で目を覚ますとはいかなかったようだ。
 身体を流れる温かい波動に意識を取り戻すと、那美の泣き顔が飛び込んできた。
 それに狼狽しながら、身体の各部を意識してチェックする。疲労と重い脱力感は抜けていないが、戦闘中に負ったはずの傷の痛みは感じない。那美が癒しの力 で処置してくれたのだろう。大きな問題はなかった。
「恭也さん……良かった」
「那美さん……お怪我は……つっ」
「無理しちゃ駄目ですっ」
 小さくうめきながら身を起こすと、酷い眩暈が襲ってきた。慌てて、那美が上半身を支えてくれる。
 疲れているのは那美も同じはずだ。申し訳ないとは思いながらも、恭也は那美に寄りかかって息を吐いた。
「恭也さん。大丈夫ですか? 身体、痛くありませんか?」
「……おかげさまで、大事ありません」
 心配そうに顔を覗き込んでくる那美に、軽く微笑む。
 那美と並んでちょこんと座っていた久遠が、鳴き声を上げた。
「くぅ〜ん……」
「……久遠も、心配かけたな」
 腕を伸ばして、頭を撫でてやる。久遠は気持ち良さそうに身体を擦りつけてきた。それを見て、目を細める。
 後味は良くないし、果して最善の結末だったのかは分からないが、なんとか、決着がついた。
 日常的な行為に落ち着きを取り戻して、緊張を解く。そこでようやく、那美の身体が震えていることに気がついた。
 泣いていた。
「神咲さん……?」
「……ご、ごめんなさいっ……」
 あの那美が、それだけしか言えずに涙を零し、嗚咽を漏らしていた。
 那美の涙は、何度も目にした事がある。だが、こうして泣き崩れる姿を見るのは初めてのことだった。
 たまらなくなって、恭也は那美を抱きしめた。那美は、恭也の胸の中で泣き続ける。
 ――救い様の無い馬鹿だ、俺は。
 敵を倒し、生き延びて、那美と久遠も無事で。それで安堵して、自分がとった行動の意味を忘れかけていた。
 恭也は、那美のことを信じきれなかったのだ。後悔はしていない。やり直すことができたとしても、恭也は同じ行動を取るだろう。
 だが、那美の想いを理解しているのならば、恭也が最初にするべきことは彼女への謝罪だったはずだ。
「……那美さん。やっぱり俺には、黙って見ていることはできませんでした」
 続けるべき言葉を探す。散々に迷った挙句、出てきた言葉は陳腐なものだった。
「すみません。俺は那美さんのこと、信じきれなかったのかもしれない」
「……謝らないでください」
「俺が言えた義理じゃないかもしれませんが……那美さんが責任を感じることじゃない。那美さんは精一杯……」
「違うんです!」
 悲鳴じみた叫びに、恭也は驚いた。ただの感情の爆発とも違うものを感じて、少なからず動揺する。
「謝らないでください。謝らなきゃいけないのは私です」
「那美さん……」
 那美の悲しみが分からない。困惑しながら、恭也は震える那美の頭を撫でた。
「恭也さんならこうするって、分かってたのに……。分かってるつもりだったのに。ごめんなさい……ごめんなさい……」
 目元から雫を落としながら、那美は謝罪の言葉を繰り返した。恭也は、責められることはあっても――それですら、那美のことだからありえない話だが――那 美のほうから謝られるようなことはしていない。
 恭也はただ、那美を守るために剣を振るっただけだ。目の前に立ちふさがった敵を、斬り捨てただけだ。
 那美は、いくらか落ち着きを取り戻したようだったが、恭也の胸から離れようとはしなかった。恐る恐る……那美らしくもない、罪悪感に満ちた表情で恭也の 顔を見上げてくる。
「ごめんなさい……。私、恭也さんに……」
 見詰め合ううちに、恭也にも分かってきた。
 思っていたよりも、さらに、ずっと。神咲那美は、優しすぎるのだ。
 那美が泣いているのは、悲しい剣士を救えなかったことに対してではない。救えなかった自分の不甲斐なさに対してでもない。
 那美は、<剣士>を『斬り殺す』ことになってしまった、恭也のことを悲しんでいるのだ。自分のせいで恭也を傷つけたのではないかと、心を痛めているの だ。
 本当に辛いのは、自分のほうだろうに。
 しかし、那美が悲しむことはないのだ。
「那美さん、いいんです。俺は……後悔してません。俺は自分で判断して、その上で……」
「違うんです」
 那美は静かに頭を振った。
「私、あの人を救うことばかりしか頭になくて、一番大切なことを忘れていました。あれは、私がやらなくちゃいけなかったんです。神咲の、私が」
 話しているうちに感情が昂ぶってきたのか、那美はまた涙を零した。それを拭おうともせずに、弱々しく呟く。
「私……神咲の剣と恭也さんの剣……両方とも、汚してしまいました」
「……那美さん。俺は、一灯流のことについてはなんとも言えません。ですが、御神の剣は元々、闇に生きる剣です。血で汚れきった殺人剣で……」
 慰めるつもりで口にしていた言葉に違和感を覚えて、恭也は口をつぐんだ。
 そう。御神の剣は、血塗られた剣だ。ただ敵を倒すため、殺すための殺人術。殺人という目的のためにだけ、築き上げられてきた剣術なのだ。
 じわり、と胸に嫌なものが広がっていく。
 常に覚悟はできていた。守りたいもののためならば、恭也は父のように戦うつもりだった。だから、那美を守るため、迷うことなく剣を抜き──
 違和感が、次第に確信めいたものへと変わっていった。
 ……なにか、取り返しのつかないことをしてしまったような気がする。
「……御神の剣は……」
 父が口を酸っぱくして言っていた。御神の剣に道はない。
 必要があれば不意打ち、闇討ちも辞さないし、もっと根本的なところで理念が存在しない剣なのだ。最強の名を冠しているのも、守るものがあるときに最も強 くなるのも、全ては純粋な暴力であるがゆえ。本来、御神の剣に目的などない。
 そして、神咲の退魔師たちには進むべき道がある。ただひとつの思いのために、夜を駆ける。
 御神の剣と神咲の剣。同じ闇の世界に生きながら、接点など何一つ存在しない。
 それが全てだった。
 意識していたつもりで理解し切れていなかった、絶対的な隔絶。人一人を斬り捨てて、恭也はようやくそれを直視することができた。
 どうして那美が、薫が、楓が、葉弓が。自分を傷つけながら、それでも霊を『殺し』続けているのか。
 特別な力を持っているから。それもあるだろう。退魔師たちは、人の営みを守るため、自らの力を振るっている。
 だが、彼らは生者のためだけに戦っているのではない。死してもなお現世に執着している、悲しいひとたち。それを助けようとして戦っているのだ。少なくと も、恭也の知る退魔師たちは皆そうだ。
 だから、神咲の退魔師たちが武器を手に取り、霊を『殺す』時。それは、彼らを救おうとしているのだ。
 この数ヶ月、那美を見続けてきた恭也には、それが分かっていたはずなのだ。那美はいつでも、心で泣きながら剣を振るっていた。
 そして恭也は、目の前の障害を排除するため、<剣士>を斬り捨てた。
「恭也さん?」
 恐々と声をかける那美の頭を撫で続ける。くらくらと眩暈がしていた。
 霊たちと同じ闇夜の世界を駆け、現世に迷う霊魂を安らげるためにだけ剣を極める神咲の剣士。彼らだからこそ、霊を『斬り殺す』資格があるのだ。
 もし、御神の剣でそれをやってしまったら。
 それは、ただの人殺しだ。
「恭也さん……あ」
 恭也は、囁くように名前を呼ぶ那美を、もう一度胸の中に抱きしめた。那美の顔を見ていられなかった。
「那美さん。やっぱり、謝らなければならないのは、俺の方です」
 間違いだった。完全に、決定的に間違っていた。
 <剣士>を倒したことがではない。
 霊を安らげるためではなく、そのくせ相手が生きていないからと心のどこかで甘く考えていた。信念に基づいて決断したようでいて、覚悟などできてはいな かった。
 それなのに、恭也は剣を抜いた。
 汚したのは恭也の方だった。神咲の剣と、御神の剣と、そして彼の魂を。
 どんどんと冷めていく心の中、今まで考える事を避けていた事実が浮かび上がってくる。


 多分。
 今、恭也は初めて、人を殺したのだ。


 動揺はないはずなのに、少し吐き気がした。
 震える那美を慰めようと、そして自分の思いを繋ぎ止めようと、彼女をきつく抱きしめる。もうひとつだけ、那美を守るために剣を振るったこと、それだけは 間違いではなかったと断言できるから。
 心細げな久遠が鳴く声が聞こえる。
 不意に、頭がぐっと引き寄せられた。柔らかい感触が恭也を包む。
 気が付くと二人の体勢は入れ替わり、恭也は那美の胸の中に抱きしめられていた。
 那美は無言で、恭也を柔らかく包み込んでいる。
 何の前触れもなく、少し泣きたくなった。幸か不幸か、恭也は涙を流すほど弱くなかったが。そして、那美は静かに涙を流し続けている。
 泣かない恭也の分も泣くように。
 しばしの間、那美は涙を流し続けた。