３
「……なんて……」 那美の呟きは、押し殺された悲鳴のようにも聞こえた。 夕焼けに照らし出される横顔も、悲しみを通り越して悲痛な色を浮かべている。 那美のこんな姿を見ていると、恭也は自分の無力さに歯噛みしたくなるのだ。 那美の視線を辿ってみても、恭也には何も見えはしない。那美の思いを共有できないのが口惜しかった。 ――美由希が溺れてから数時間。時は夕刻。 恭也は急ぎこちらへやってきた那美を迎え、同時に美由希を海鳴へ送り返していた。合宿を中断することになってしまったが、やむをえないだろう。 余裕のある顔をしてみせてはいたが、美由希はかなり怯えているようだった。こういったメンタル面での不安定さは、強化課題のひとつとなるだろうが……今 は無理に合宿を続けても、実のある鍛錬が行えるとは思えなかった。 「……どうですか？」 「……あまり良くないです」 沈んだ表情のまま、那美は小さく首を振る。 恭也の質問は、「安らかに眠らせることができるのか」という意味だ。もしそれが不可能なら、那美は霊を『斬り殺す』ことになる。 「元々、水難事故の場合、難しいんです。苦しんで亡くなられた人が多いから……死んでしまっても、苦しくて……苦しくて。もう、何も考えられなくなってし まうんです。誰かに助けて欲しくて……でも、その相手まで引きずり込んでしまう」 佇む那美の側に、親友である久遠の姿はない。 かつては祟り狐として恐れられた妖狐である久遠だが、今は力の大半を封じ、那美の相棒として退魔の手伝いをしていた。 今回も付いて来るとばかり思っていたのだが、どうやら恭也の妹のなのはに連れ出されて出かけてしまっていたらしい。持たせてある携帯も通じなかったの で、那美ひとりで出発したのだ。戦力の低下よりも、時間を置くことによって事態が悪化することを恐れたのだろう。元々、久遠を必要とするような規模の霊障 は、そ う多くないという事実もある。 恭也としては恐縮するしかなかったのだが、那美は笑って許してくれた。こうなると、恭也にできることは、久遠の抜けた穴を少しでも埋める事ぐらいだ。 「それで……どうします？」 今度の質問の意味は、さきほどのそれとは少し違う。 那美は立ち上がると、ゆっくりと頭を振った。その顔には、静かな決意と緊張が満ちている。 「話して、みます。自分がもう死んでしまっていて、苦しむ必要が無いのだと教えてあげれば、浄化できるかもしれません。……幸い、残念自体はそう強くあり ませんから」 「……分かりました」 恭也の感触では、あの霊に話を聞き入れる余裕があるとは思えなかったが、専門家の那美が決めたことだ。是非はない。 恭也はただ、万が一の事態に備えて那美を見守るのみだ。 「それじゃ、ちょっと行ってきます」 まるで近所のコンビニにでも出かけるような気軽さで、那美は言った。 その顔には、さきほどまでの固さは微塵も感じられなかった。恭也が見慣れた……そして何よりも愛している、優しい笑顔が浮かんでいるのみだ。 浄霊に赴くとき、那美はいつも穏やかな微笑みを絶やさない。 『彼ら』に必要なのは、哀れみではなく、優しい気持ち。 一緒になって悲しみに沈むことと、故人を悼むことは全く違うのだと那美は言う。 見下さず、恐れず、哀れまず。穏やかな空気の中で、話を聞いてあげるのだと、那美は言う。 幸せな自分の気持ちを、少しでも分けてあげられれば、『あちら側』へ渡す手助けになるはずだと……優しい笑顔に強い瞳を輝かせて、那美は言っていた。 久遠との一件があって以来、那美の中の思いは、さらに確かなものへと変わったように思える。 「……お気をつけて」 恭也の言葉に頷き返して、那美は川岸に向かって歩き始めた。 小さな背中が遠ざかっていくに従って、心がざわめいていく。しかし、後を追うわけにもいかない。恭也のような無骨な剣士が一緒にいては、霊を刺激するだ けだろう。 なにしろ、相手は子供なのだから。 那美は歩みを進め、川の流れの一歩手前で足を止めた。 ひとつ深呼吸をして、ゆっくりと水に足を浸す。 それとほぼ同時に、異変が起きた。 黄昏時だからだろうか、美由希のときよりも変化が大きい。不自然な流れが那美の足元へと絡みつき、おぼろげな靄のような気配が立ち上った。恭也には『何 か』にしか見えないが、那美にはその姿をはっきりと認識することができているはずだ。 那美は足元を救おうとする水のうねりにも、妖気にも動じる様子を見せなかった。 「……お話し、しましょ？」 微笑を絶やさずに、那美は言った。 声をかけた途端に、霊の動きがぴたりと止まった。 次の瞬間、何かタガが外れたように川の流れが激しさを増した。山中の清流とは思えない勢いで水流が打ち付け、靄が狂ったように暴れ出す。ほんの数秒前に は那美の足首ほどまでしかなかった水深が数十センチも跳ね上がり、体勢を崩した那美を水中に引きずり込もうとした。 （――限界だ！） 見ていられない。 流れに足を取られてしまったら、恭也でも助けることができなくなる。 意識を集中し、『神速』のトリガーに指をかける。今まさに『神速の領域』に飛び込もうとした恭也を、那美の強い視線が制した。 水に揉まれながら、那美は笑っていた。 その笑顔が、『大丈夫』と恭也に語りかけてくる。 一歩を踏み出しかけたまま、恭也は凍りついた。 一瞬の間に、処理しきれないほどの思いや情報が頭を駆け巡る。 御神の剣士としての恭也は、一刻も早く行動を起こすべきだと結論していた。 退魔師としての那美を見続けてきた恭也は、那美の思いを尊重してやれと諭していた。 そして、ひとりの男としての恭也は、そんなことはどうでもいいから早く那美を助けろと騒ぎ立てていた。 それでも恭也は動かなかった。 いつでも那美の元へ駆けつけられるように構えを取りながらも、動かない。 那美は瞳だけで、嬉しそうに笑ってくれた。そして、その視線を不運な子供へと向けなおす。 「……大丈夫よ。私は逃げたりしないから」 まさしく、子供をあやすような口調だった。 荒れ狂っていた霊の動きが、わずかではあるが確かに弱まった。 じりじりと水中に引き摺りこまれながら、那美は穏やかに話を続ける。 「大変だったね。苦しかったでしょう？ でも、今はもう苦しいことなんてないんだよ。君がそう思っているだけ……」 不可視の力は止まらない。狂ったような勢いこそ弱まったものの、那美を水の腕で押さえ込もうとしている。 「……安心して、いいんだよ？ 今、お姉さんが助けてあげるから。いつまでもそんなところにいたら、お父さんとお母さんも心配するでしょう？ だから、も う出ようね……」 力は弱まった。しかし、周囲に拡散していた気配が集中し、那美に絡み付いている。水に揉まれて、那美の全身はびっしょりと濡れていた。 「……そう、男の子なんだ。それじゃ、もう少し頑張らないとね。手伝ってあげるから、さ、泳ぎましょう。私も、水泳はあんまり得意じゃないんだけどね。水 から上がって、おうちに帰ろ」 那美の放つ気配が、少し変わった。 柔らかな微笑みは変わらないが、凛とした清浄な空気が場に満ちつつあった。絡みつく鬼気を払うほどには高められない霊力が、水の勢いだけを微かに弱め る。 半歩だけ、那美が岸に向かって身を引いた。霊が再び、狂ったように勢いを増すが、那美はそれ以上引きも進みもしない。那美を力で押さえつけると、霊は安 心したように勢いを緩めた。 ――これなら、やれるかもしれない。 膨大な精神力を使って自制心を保っていた恭也は、驚嘆していた。 全く話を聞き入れていなかった霊が、少しずつではあるがコミュニケーションを取れるようになってきている。油断はできないが、可能性の芽は次第に芽吹き つつあった。 事態が解決に向かい始めたと感じたからだろう。那美に集中していた感覚の網が、一瞬の緩みを見せた。すぐさま引き締めようとした感覚の網に、異質な何か が引っかかった。 （――！？） なんと迂闊な。 霊にかかりきりになっている那美はともかく、恭也が気付かないようでは話にならない。 那美に固執したがる感情を一時切り捨て、恭也は危機感を想起させる『何か』に向き直った。 男だった。 歳の頃は、三十路に差しかかろうかどうか、といったところだろうか。中肉中背だが、無駄なく鍛え上げられた肉体だと見受けられた。何か武術を嗜んでいる 人間の身体だ。 三点、恭也の注意を引いた。 身に纏っている、見たことも無いような奇妙な服。那美が着る巫女服に少し似ている気もするが、神道というには異質な装いだ。 さらに目を引くのが、腰に佩いた小太刀だった。御神流とは違い一刀だけだが、御神流以外で小太刀を持つ剣士はやはり珍しい。 そして、一点。男は、本来放っていて然るべき生の鼓動を、一切感じさせなかった。代わって放たれるのは、肌を刺すような鬼気。 死んでいた。 間違いなく、霊だ。それも、恭也でさえ見ることのできるほどに、力の強い。 身体が勝手に抜刀の構えを作り、意識は『神速』に備えて鋭さを増す。 そこでようやく、霊がこちらに全く関心を払っていないことに気がついた。 霊が放つ気配の先にいるのは…… 「――神咲さん！」 恭也は叫んでいた。 「……え？」 子供の霊に集中していた那美が、突然の怒声に呆気に取られた声を漏らす。 注意を促すよりも早く、剣士の霊が動いていた。 早い。 水の上を『走り』、一直線に那美を目指している。 （……間に合わない！） 思った瞬間に、スイッチが入った。 ――どくん。 世界がモノクロに染まり、音が消え去る。 ゼリーのように質量をもって感じられる空気の中を、恭也は周りの世界より幾分早い速度で走り出していた。 御神が誇る奥義の歩法、『神速』がもたらす感覚だ。 そんな停止した灰色の世界で、恭也以外に動きを見せているものがあった。 男の霊だ。 恭也ほどの速さを保ってはいないが、『神速の領域』の中でも走り続けている。肉体を失っているがゆえの、この動きなのだろう。距離は縮まりつつあるが、 このままでは敵が那美に辿り付く方が早い。 ズキズキと痛み始めた脳の奥と膝を無視して、無理やりに『神速』を維持する。恭也が維持できる発動時間は、普段ならば５秒程度だ。それ以上は、維持する ことはできても反動が大きすぎるので、戦闘中には使えない。極限にまだ高めた集中力によって引き起こされる『神速』は、心身に極端な負荷をかける。 しかし、今は「それ以上」が必要なのだ。 引き伸ばされた一瞬の中の数秒を、恭也は駆ける。もう数歩で霊に並ぶというところで、膝の古傷に鈍い痛みが走った。痛みに集中力をかき乱され、恭也は 『神速の領域』から失速していった。 反射的に右手が飛針を引き抜き、放つ。 色彩が戻った世界で、飛針が男に突き刺さり――すり抜けた。 それを絶望と共に見送りながら、恭也は地面に倒れこんでいた。全身を激痛と脱力感が襲っている。『神速』の反動だ。痛みなどに負けている場合ではないの に、身体――特に壊れた左膝は、全く言う事を聞いてくれない。 ぐるぐると回る世界の中心に、大きく目を見開いた那美と、その目前で抜刀する男の姿があった。 無力だった。 不敗を誇る御神の剣が、届かない。 「――やめろぉっ！」 恭也は絶叫した。 手を伸ばす恭也には目も留めず、男は小太刀を振りかぶる。 「那美っ！！！」 一閃。 思考が止まっていた。 那美。那美。那美。 その単語と彼女の笑顔だけが脳裏を埋め尽くす。 多分、それはほんの一瞬の間だったのだろう。 最後に脳裏を過ぎったのは、那美ではなく今は亡き父の後ろ姿だった。 届かない、と思った。 「…………ぃ！」 無茶な使い方をした『神速』の反動だろう。混濁していた意識が、弱々しく活動を再開した。 最初に認識したものは、正確に獲物を両断した男の小太刀だった。 「え……？」 きょとんとした声を漏らしたのは、那美だった。 小さく開いた腕の中を、訳が分からないといった様子で見つめている。 何故だろう、今は恭也にもはっきりと見えた。小さな男の子が苦悶に身を捩り、泣きじゃくっている姿が。最後に少年は、那美にしがみつこうとして……消え た。 「あ…………」 震える声を喉から漏らしながら、那美はぼんやりと顔を上げた。 視線の先には、剣士の霊。彼は、どこか厳粛さすら感じる面持ちで小太刀を収め、宙に拡散するようにして姿を消した。気配も、感じられなくなる。 それを呆然としたまま見送り、那美は白い両手を広げた。手の平が、細かく震える。 「そんな……」 見開かれた瞳に、ゆっくりと理解の色が広がっていく。 恭也はろくに動かない身体に鞭を打ちながら、ゆっくりと立ち上がった。膝が激痛に震えたが、恭也は無視して歩きつづけた。 「そんな……もう少しで……助けて……」 那美は小さくよろめくと、その場に座り込んでしまった。黄昏時の昏い世界の中、巫女服の白だけが浮き上がって見える。 のろまな自分に苛立つほどの時間をかけて、恭也は那美の元へと辿り着いた。 気付いた那美が、憔悴した顔で恭也を見上げる。 「……恭也さん」 「はい……」 答えながら、手を伸ばす。力の無い那美の手を握り締め、もう片方の手を腰に回し、やや強引に抱き起こした。 那美の冷たい体を腕に収めて、恭也は愛しい少女を抱きしめる。 「無事で……良かった。本当に」 あえて、恭也はそう言った。 救われることなく消え去った少年のことを哀れだとは思ったが、那美の無事な姿の前には、些末なことでしかなかった。那美が無事なのだ。それでいい。 那美は泣きそうな顔をして、慌てて顔を伏せた。水の冷たさか、あるいはそれ以外のものでか。身体を震わせながら、小さく息を吐き、吸い込む。 「――はいっ」 顔を上げて微笑む那美の瞳には、強い光が戻っていた。哀しげではあるが、それはいつもの那美の瞳だ。 それを見て、恭也はようやく、張り詰めていた緊張から解き放たれた気がした。 しかし、確認しておかなければならないことがある。 「神咲さん。さっきの、あれは……」 那美はしばし瞑目すると、厳しい顔で頭を振った。 「分かりません。霊が霊を消滅させるなんて、私は聞いたこともないです」 それはそうだろう。 霊障というものは、なんらかの神秘的な術法でそうされている場合を除き、現世に執着して『あちら側』に赴けずにいる存在なのだ。自然と、こだわりを見せ る対象は現世の人間なり、事物となる。 ましてや、霊が明確に『斬り殺す』動作を見せて霊を消し去るなどということは、退魔の道を知って日が浅い恭也にも、前代未聞のことであると判断できた。 「……でも」 ぽつりと、那美が呟きを漏らした。そして、記憶の中を探るように目を細める。 「でも、あれは……どこか……で……」 不意に、那美は目を見開いて息を飲んだ。信じられない、といったように首を何度も振った後、血の気の失せた唇を噛み締める。 落ち着いたのを見計らって、視線で続きを促すと、那美は言葉を選ぶようにしながら、ゆっくりと口を開いた。 「……あの服には、見覚えがあります。あれは……」 物憂げに髪を手で押さえながら、那美は恭也から川の流れへと視線を戻した。そこは、剣士の霊が消え去ったところだ。 その横顔は、少年の霊を見つめていた時よりも、さらに深い思いに沈んでいるように見えた。 那美はしばらく言いよどんだ後、躊躇の殻を破るように、はっきりと言い放った。 「あのひとが着ていた服は……神咲の式服です」 |