ルリと艦長がバーチャルルームから出てきたのは、ブリッジの人間が待ち疲れ、ようやく現実に帰ってきたハーリーが半泣きになってグスグスと鼻をすすり始 めた頃のことだった。
　いつの間にやらブリッジには、艦内各所から野次馬が集まってきている。この一大イベントを見逃してなるものかという熱気が、無駄に熱い連帯感を生み出し ていた。
　彼らの野次馬根性丸出しの視線が集中していることには当然気付かずに、ルリがぺこりと頭を下げた。
『艦長。毎日、わざわざ付き合ってくださってありがとうございます』
『いえ。結構、楽しませてもらっていますよ。いい経験になりますし、私も少佐と話をしておくと安心できますから』
「……毎日」
　ヒカルが呟くが、これはもう今更といった感じで、反応する者はいなかった。
『今日は、いつもより遅くなってしまいましたね。──今晩はこれでお開きにしましょうか。おやすみな……』
『あ、待ってください』
　艦長の言葉を、ルリが遮った。
　ルリは一瞬、躊躇するような様子を見せた後、艦長の顔を見上げた。
『艦長』
『はい？』
　艦長が不思議そうに軽く目を見開いた。
『あの……もしよろしければ、これから艦長のお部屋にお邪魔してもいいですか？』
　一瞬の沈黙。そして、悲鳴と歓声が爆発した。
「うっわー！　ルリルリだいったーん！」
「な、なんかルリらしくねぇセリフだな」
「こりゃ、ミナトさんに知らせないと」
　好き勝手なセリフを吐く一同。
　下部ブリッジの方も、上部ブリッジに劣らず混乱を極めていた。
「おい！　聞いたか！？」
「あの艦長……じゃなかった、ホシノ少佐があんなこと言うなんてな」
「うう……ファンクラブ解散だなぁ……」
「スクープだよね、スクープ！」
　泣き出すもの、小躍りするもの、悲壮な顔でルリの生写真に涙を落とすもの、いきなり取っ組み合いの喧嘩を始めるもの──もう無茶苦茶である。
『今から……ですか？』
　困惑したような艦長の声が響いた瞬間、騒然とした空気は消え失せ、何かに対する期待に満ちた沈黙が下りた。
　気が進まない様子の艦長を見て、ルリは微かに瞳を曇らせる。
『ご迷惑ですか？』　
『いえ、そんなことはありませんが』
　言葉とは裏腹に、艦長は弱り切った様子で頭に手をやった。
『でも……さすがに今からは問題があるのでは……』
『そうかもしれませんが……いつ戦闘になるか分からない以上、こういうことは、早めにすっきりさせてしまいたいんです』
　おおっ、と今度は低いどよめきが巻き起こった。数十人分の視線が、いよいよ好奇心を剥き出しにして、ウィンドウ越しに突き刺さる。
　艦長はしばらく口をつぐんでいたが、やがて決心したらしく、微苦笑気味にではあるが頷いた。
『確かに、その通りですね。……散らかっていますが、それでもよければ喜んで』
『はい。それじゃ、お邪魔します』
　例によって、ふたりは並んで歩き出した。





　――戦々恐々というのはこういう気分のことを言うのだろう。
　一部始終を確認し終えたサブロウタは、恐る恐るハーリーの様子をうかがった。　
「……げっ」　
　小さくうめく。
　人間としてスクラップ、などという物騒な比喩を思いついて、戦慄してしまうサブロウタである。
　さすがに罪悪感を覚えて、サブロウタは努めて明るく声をかけた。
「あー。ハーリー？　そう落ち込むなよ。まだ望みが絶たれたわけじゃあない」
　ハーリーは、虚ろな顔つきでぶつぶつと何事か呟いていたが、その言葉にいくらか正気を取り戻したようだった。　
「そ……そうでしょうか」
　既に強がりを言う気力も無いらしく、すがりつくような視線でサブロウタを見上げてくる。
　サブロウタは意を決した。
　やはりここは、兄貴分としてハッパをかけてやる必要があるだろう。力強く、力強くハーリーの肩に手を乗せる。
「ああ。もちろんだ。諦めることはない！　確かに艦長は経歴も将来性も人間性も軍人としての能力もお前より上だし、おまけにホシノ少佐よりも年上だ。気が 合うみたいだし、仲もいい。はっきり言って、戦力には絶望的な差があるな。男ってのは、引き際が肝心だぞ、ハーリー？」
「うわーん！」
　ハーリーは号泣し始めた。
「おいサブ！　とどめを刺してどうするっ？　わざとやってないか、お前！？」
「あー。泣―かした、泣―かした」
「かーんちょうにぃ言ってやろー」
「あ、ありゃ？　いや、つい」　
　思わず本音が出てしまったと、サブロウタは反省した。　
　非難の嵐に背を向けつつ、気を取り直して続ける。
「いいかハーリー、良く聞け！　確かに総合力で見れば艦長のほうが有利かもしれないが、人間なんてものはデータだけで推し量れるもんじゃない。例えばだ、 お前にだって、艦長に勝っているところがある。それを武器にすればいいんだ！」
「ホ、ホントですか……ボクにも、そんなところがありますか？」
「ああ、もちろんだ……例えば……そう……」
　――──サブロウタは、助けを求めて視線を巡らせた。
『…………』
　そろいも揃って、全員がわざとらしく顔を逸らせていた。イズミに至っては、なにやら向こうの世界にイッてしまっている。
　なんて薄情な奴らなのだろう、とサブロウタは憤慨した。誰か、代わりに止めを……ではなかった、慰めの言葉のひとつも考えてくれても良さそうなものなの に。
　頼りにならない仲間たちの姿に、サブロウタは覚悟を決めると、ハーリーを見つめ返した。
「そう……いいか……」
「……はい……」
「……そう、例えばだ……」
「……」
「…………な、七色の声……とか？」
「うわ――ん！」
　ハーリーはピーピーと声を上げて泣き始めた。ほとんど小学生のノリである。いや、実際、その程度の年齢なのだが。
　同情と諦観に満ちた視線が集まる中、ハーリーは延々と涙を流し続けていたが……唐突に泣き止んだ。
「ハーリー……？」
　『本気で壊れたか？』と思いながら、サブロウタが顔を覗き込もうとすると――
　ハーリーは勢い良く跳ね上がり、猛然とブリッジを飛び出していった。
「おい、ハーリー！？」
「ハーリー君、暴走！？」
　サブロウタは、慌てて後を追った。

　

 

　
「ムググググググ……」
「うわ、ハーリーお前、噛むんじゃない！」
「わっーた、わっーたから、ちょっと落ち着けハーリー」
「そうだよハーリー君。ほらほら、れっどすねーくかもーん」
「引導渡す、インド人……くくくくく」
　サブロウタに押さえ込まれたハーリーの目前で、ヒカルが安っぽいヘビのおもちゃをニョロニョロと動かしていた。
　あの後、どうやら艦長とルリの元へ向かおうとしていたらしいハーリーを何とか押さえ込み、側にあるサブロウタの部屋に引っ張り込んだのだが──
　捕らえられたハーリーは、いまだにサブロウタの腕の中で暴れ続けていた。
　そのハーリーが睨みつけている部屋の中空には、自動追跡に設定されたミニエステから送られてくる映像が映し出されている。
　これ以上見せるのは酷だろうということで、最初はウィンドウを閉じようとしたのだが、ハーリーが一段と激しく暴れるので、止むを得ずそのままにしてある のだ。
「お……そろそろ部屋につきそうだな」
　ちょうど、この部屋の前に辿り着いたところだった。艦長の部屋まで、文字通り後一歩という距離である。
　それを確認したハーリーが、がっくりとうなだれて体の力を抜いた。
　どうやら、いよいよ燃え尽きてしまったらしい。
　とりあえず、木連式柔で拘束していた体を解放してやる。
　ハーリーは、ぽてりと床に転がった。
「あーあー。かわいそうだねぇ」
　軽い口調で言うヒカルだが、さすがに顔色は冴えない。
「しょうがねぇだろ、こういうことは」　
　リョーコが、どこか憮然とした様子で髪を押し上げている。
　彼女に限らず、少し悪ふざけが過ぎたかと後悔する空気が漂い始めていた。
「あ……ふたり、部屋に入るみたいだな」
「ウリピー、いいかげん、カメラ止めよ？」
「そうだな。これ以上は洒落じゃすまなくなる」
　最初から洒落では済まない、という説もあるが、それはともかく。
　そう言って、セイヤがコントローラーに手をかけた瞬間だった。
「──うわあああああ！」
　灰になったとばかり思っていたハーリーが突然起き上がり、ドアに向かって突進したのは。
「げっ！？　またやられた！」
　慌てて飛び出したときには、既に手遅れとなっていた。

 

 

 
「ハーリーくん？」
　艦長の部屋の前、ドアを開けたままの状態で、艦長とルリがきょとんとした顔でハーリーを見ている。
　ハーリーは大きく肩を上下させて息を整えると、震える声で叫んだ。
「か、艦長……ルリさん……不潔です！！！」
「……はい？」
「……え？」
　艦長とルリの目が点になった。これはこれで、なかなか見られない稀有な光景ではある。
　絶叫して緊張の糸が途切れてしまったのか、ハーリーは顔を俯かせて泣き出し始めた。
「ボク、艦長のこと……見損ないました……こんなの……ひっく……」
　どちらの『艦長』のことを言っているのかは分からないが、そこまで言ったきり、ハーリーは絶句してしまった。
　どうやら、サブロウタたちが思っていた以上に、ショックを受けていたらしい。
　サブロウタはハーリーの横に歩み寄ると、優しく頭に手を置いてやった。
「ハーリー……さ、行こうぜ？」
　ハーリーはしばらくの間、俯いたまま肩を震わせていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「よし！」
　サブロウタは大きく笑みを浮かべた。
　軽く肩を叩いてやってから、艦長とルリに向き直る。
「艦長、少佐。お取り込み中のところを、失礼しました」
　艦長とルリに向かって、サブロウタは頭を下げた。
　艦長はまだ呆然としているようだったが、とりあえず判断を先行させたのか、口元に柔和な笑みを浮かべた。
「いえ、こんなことはいつでもできますから、どうでもいいですよ。それより、ハーリーく……」
「──おい、艦長！」
　言葉を遮って、リョーコが険悪な声を上げた。激怒した様子で、顔を赤く染めている。
　リョーコだけでなく、ヒカルもセイヤも、イズミまでもが険しい顔つきになって艦長を睨みつけていた。
「な、なんです……？」
「なんです？　じゃねぇ！　なにが『こんなこと』だ！？　ルリの気持ちをもう少し考えやがれ！」
「……あたし、艦長のこと買いかぶってたみたい」
「まったくだな」
「そうね」
　次々と頷かれて、艦長はうろたえた。途方に暮れた顔になって、一歩後ずさりをする。
「みなさん、一体なにを言ってるんです？」
「……艦長。悪気はなかったんだと思いますが……言葉遣いには、気をつけたほうがいいこともあるんです。女性を大切にするのは、木連でも地球でも同じ事で しょう？　それと、少しはハーリーの気持ちも考えてやってください」
　あえて感情を抑え、静かに口にしたサブロウタの言葉に、艦長の顔に浮かぶ困惑が一段と深くなり――次の瞬間、そこに微かな理解の光が芽生えた。
「あの……皆さん。ひょっとすると何か勘違いをしていませんか？」
「おい、言い訳はよせよな」
　リョーコは憤然として、今にも掴みかからんばかりだ。
　と、それまで事態を静観していたルリが、ようやく口を開いた。
「ちょっと待ってください。いまいち話が見えないんですが、皆さん何を怒っているんです？」
「何をって……ルリ、お前、あんな言い方されて腹立たないのか？」
「あんな言い方？」
　微かに眉を顰めるだけのルリに、リョーコは気勢を削がれたようだ。
「だ、だからよ、『こんなこといつでもできる』だのなんだの言われてだな……」
「――艦長の言うとおりじゃないですか。確かに大切なことですけど、その気になればいつでも出来るんですし」
「……へ？」
　今度は、サブロウタたちが唖然とする番だった。
　とりあえず、ルリに背を向けて円陣を組む。
「おい、どういうことだよ？」
「ひ、ひょっとして日常茶飯事だとか？　毎晩だったり？」
「まさか、ルリルリだぞ？」
「でも、物静かな人ほど情熱的だとも言うしー」
　等々、各人が好き勝手なことをまくしたてるのを聞きながら――ようやくサブロウタは、何かが根本からずれていることに気が付いた。
　円陣から離れて咳払いをひとつ、ルリたちと向き合う。
「――あの、艦長、少佐。ひとつ確認したいことがあるんですが……気を悪くしないで答えてもらえますか？」
「は、はあ」
「いいですけど」
「……おふたりは、今から艦長の部屋で、何をしようとしていたんです？」
「ば……バカ、お前……」
　頬を染めて焦るリョーコを尻目に、艦長とルリの声が綺麗に重なった。
『ミーティングですけど』
「…………え？」
　今度は、艦長とルリ、そしてサブロウタを除いた五人の声が重なった。