今年もまた、運命の日が来た。 士郎が掛け替えのない人たちを失った日。 士郎が掛け替えのない少女と歩み出した日。 だから、失われたものに対して、祈りを捧げようと思った。 ５
二年ぶりに訪れる大聖杯の跡地は、すっかり様変わりしていた。 あの戦いで、大聖杯本体が設置されていた空洞は崩壊、その直上に位置していた柳洞寺もろとも陥没してしまったからだ。 おかげで、二年経った今でも柳洞寺は再建途上にあり、完全に復興されるまでは更に数年を要するらしい。跡継ぎである一成と話をするたび、申し訳ない気分 になる士郎である。 平然とした顔で「原因不明の大事故ですってね。ご愁傷様。でも、死者が出なかったのは仏様の思し召しというものではないかしら」などと言っていた遠坂凛 は、やっぱりあくまだ。 「士郎。足元に気をつけて」 「おっと……さんきゅ」 物騒な大きさの瓦礫が行く手を塞いでいるのを、ライダーの助けを借りて通り抜ける。あの場所に少しでも近づこうと思い、道なき道を進んでいるわけだが、 崩壊の煽りを受けて乱雑になった山中を進むのは、病み上がりの身体には少々辛かった。 魔術の暴走で負った負傷そのものは全快している。だが、寝たきりだった分の体力の衰えばかりは、一朝一夕で回復できるものではない。 重くなる呼吸に、大きく深呼吸をすることで対抗して、脚を前へと運ぶ。 「辛そうですね。一旦、休息を入れましょうか？」 見かねて提案してくれるライダーに、士郎は首を振った。 「いや、これぐらいなら良いリハビリになる。大丈夫だ」 「分かりました。ですが、あまり無理はしないように」 無理に休ませようという気はないらしく、ライダーは前を向いて歩き始めた。 士郎もすぐに後を追う。 「……ライダーと先輩、最近、妙に仲が良くないですか？」 「……う」 背後から響く声に不吉なものを感じて、士郎は恐る恐る振り返る。 途端に、不機嫌な顔でこちらを睨んでいる桜と目が合ってしまった。士郎の顔のどこかに浮気の兆候でも見出そうというのか、ジト目で観察しながら士郎の横 に並んでくる。 「ここ何日か、ライダーは先輩の世話ばかり焼いてますし、先輩だってなんだかライダーのこと意識しているし……やっぱり変です」 蛇に睨まれた蛙の気分を堪能しながら、士郎は反論を試みた。 「いや……そんなことないだろ。ライダーは俺の体を気遣ってくれてるだけだし、俺がライダーに気を使ってるのはだな、助けてもらったお礼みたいなもんだ。 命の恩人なんだから、当然だろ」 「それは、そうですけど」 しぶしぶと桜は頷くが、あまり納得している様子はなかった。 まあ、士郎とライダーの関係が微妙に変化しているのは事実だ。それまでは、間に桜を挟んだ繋がりであったのが、あの晩を境に直接的な関係が構築されたの だから。 ライダーの言動はそれに基づいたものに変わりつつあるし、士郎の方は気恥ずかしさのようなものがあって、彼女のことを意識してしまう。 桜には、士郎が目覚めたのはライダーの宝具のおかげだとだけ伝えてある。交わされた誓いに関しては、ライダーとふたりだけの秘密にしてあった。あの誓い は、桜にも話すことができない神聖なものであると感じていたし── なにより、うっかり口にしかけた瞬間、目を細めて睨みつけてきたライダーの表情を思えば、秘密にせざるをえない。士郎はまだ、無機物に変わりたくなどな いのだ。 「……でも、なんかこう……やっぱり、前よりも距離が詰まっているように見えるというか……」 桜はぶつぶつと呟いている。 確かに秘密にしていることはあるが、特にやましい事実を隠しているわけでもない。士郎は説得を続けようとしたが、先を歩いていたライダーが不意に振り返 り、機先を制して口を開いた。 「サクラ。確かにここ数日、私と士郎は親睦を深めていますが、私たちが信頼関係を醸成することに何か問題がありますか？」 「なっ……せ、先輩っ！？」 平然と言い放ったライダーの言葉に、桜は疑いを深くしたようだった。例のごとく、俯き加減になって上目遣いに士郎を睨みつけてくる。 士郎は気圧されて声も出せなかった。というか、なぜライダーではなく士郎を問い詰める体勢に入りつつあるのだろう。 と、桜は何か戦慄らしきものに身を震わせると、はっとした顔でライダーに向き直った。 「……ライダー。まさか貴女、先輩相手に、その……魔力の補充とかしてないでしょうね？」 「いいえ。一時期は不足していましたが、現在はサクラ以外からの供給が必要な状態にはありません」 しれっとした顔で答えてから、ライダーは余計な言葉を付け加えた。 「まあ、士郎が望むのであれば、お相手をするにやぶさかではありませんが。本来、私には吸血や吸精の方が肌に合っているのです」 「──っ！ 駄目、絶対に駄目です！ 断じて許可できません！ 命令に従わないと令呪使いますからっ！」 桜はがーっと吼えながら、令呪をライダーに突きつける。 なるほど、間桐桜は遠坂凛の妹だと士郎は納得する。冷や汗をかきつつ。 「命令ならば従いましょう、マスター」 ライダーは無表情に頷いているが、口元が僅かに笑っていた。桜はそれに気づく余裕もないようだったが。 その口元が、さらに綻ぶ。 「ですが、本当に仲が良いのは士郎とサクラの方でしょう。ここ数日は、士郎の魔力も随分と充実しているようですし」 「……っ」 「う……」 士郎と桜は、揃って赤面してしまった。 思わず相手の顔を横目で伺い、視線がかち合ってしまったので即座に顔を伏せる。 士郎が寝込んでいた間、桜は延々と湧き出てくる魔力を持て余していたし、士郎は不安定な投影の連続で魔力が不足していた。 その他もろもろの事情も含めて、ここ数日は普段よりも綿密に、魔力の受け渡し作業をしていたわけである。具体的に言うと、毎日。その辺りの事情も、ライ ダーには全て筒抜けになっているらしい。 「さて、サクラ。私と士郎が親しくなることに、何か問題がありますか？」 「……いえ。ちゃんと一線を引いてもらえれば、構いません」 攻撃の矛先をあっさりとかわされて、桜はすごすごと後方へ退却していった。 「なんにしろ、健康なのは良いことです」 追い討ちの一言で桜の耳を真っ赤にさせながら、ライダーは満足そうに微笑んだ。唇の釣りあがり具合が、微妙に意地の悪さを象徴しているように見えなくも ない。 こちらも凛の影響だろう、と士郎は確信した。異国に移ってなおこの影響力、あかいあくま恐るべし、である。 それにしても、と士郎は眩しげにライダーの顔を盗み見た。 ここ数日で、ライダーの笑顔は以前にも増して魅力的になっていた。以前から少しずつ現れていた変化だったが、ここにきて一気に開花したように思える。肩 の力が抜けた、とでも言うのだろうか。晴れやかに微笑むライダーの姿は、まさに女神と呼ぶに相応しいものだった。 いや、こんなふうに感じているから、桜が妙な勘ぐりをするのかもしれない。少し反省しておく。 ふと士郎は、桜とライダーのことばかり考えている自分に気がつき、驚いた。 今日は、二人の少女を悼むために、わざわざここまで出向いてきたのだ。それなのに、少なくともこの数分間は、沈んだ気持ちなど消え去っていた。 ほんの数日前まで、セイバーのことばかり考えていたのが嘘のようだ。 彼女を忘れ去ることはないだろう。だが、記憶は確実に色褪せていく。それが良いことなのか悪いことなのか、士郎には判断がつかない。 だが、きっと、大きく間違ってはいないだろう。 ライダーの笑顔を見ながら、士郎はそう思った。 やや開けた場所を見つけると、三人は立ち止まった。 出来れば、地下空洞に続く通路、そして大聖杯の跡そのものまで進みたかったのだが、どちらも崩壊してしまっている。ならば、厳密な位置にこだわる意味は ない。 暗黙のうちに三人は了解して、そこに花を捧げた。 まずは、雪が良く似合った銀髪の少女へ。 花以外に贈ることが出来るものがあれば良かったのだが、士郎はイリヤが欲しがるようなものを思いつくことができなかった。いや、彼女が求めてやまなかっ たものは知っている。だが、それは霊前に捧げることができないものだった。 手を合わせ、何を祈るべきか、どんな言葉を送るべきなのか、少し悩む。 伝えたいことがたくさんありすぎて、まとめるのはとても難しい。 だから、万感の思いを込めて、ただ一言だけ伝えた。 妹であり、姉でもあった少女へ。 「……ありがとう」 また来年、来るからなと微笑んだ。 ──そして、もう一人。 衛宮士郎の半身だった少女。 彼女には、花ではないものを捧げようと士郎は決めていた。 立ち上がり、意識を集中する。 各々の形で死者と向き合っていた桜とライダーが、訝しげな視線を向けてくる。 ふたりに微笑んでから、目を閉じた。 ゆっくりと両手を差し出す。 そのまま呼吸を整え、撃鉄を引き落とした。 「──I am the bone……」 呪文を唱えかけて、今ここでは相応しくない言葉だと士郎は気づく。 今、ここで唱えるべき呪文は、これではなく。 ──そうだ。この体は…… 「────I am the bone of her sword────」 きっと、もう二度と口にすることのない、ただ一度の呪文。 その一言で、思考は流れるように工程を走り抜けた。 滞ることなく、何の負荷も生じさせず。 士郎の手は聖剣とその鞘をつかんでいた。 「…………セイバー」 伝わってくる。 この剣を手に戦場を駆けた、一人の騎士の思い。 その先に目指していた、一人の少女の理想郷。 セイバーを失ったこの場所で、士郎は、かつてなかったほど彼女を近しく感じていた。 皮肉な話だとは思わない。ただ、彼女の力になれなかったことだけが悔やまれた。 「……エクス、カリバー……」 桜が眩しげに目を細めて、聖剣の真名を口にした。その名を忘れえぬようにと言わんばかりに、力強く。 「……美しい」 ライダーは小さく感嘆の息を漏らし、自分の発言に眉をしかめている。 ふたりの反応が、士郎には嬉しかった。 身勝手だと分かってはいたが、衛宮士郎のサーヴァントは、こんなにも美しいものを携えていたのだと、大切な人たちに見てもらいたかった。 少なくとも、ここに三人。 お前を理解している人間がいるんだぞと、彼女もいつか見上げた空に示してやりたかった。 士郎は、鞘に収めたままの聖剣を大地に突き立てる。 あの剣士の墓標に、これほど相応しいものはないだろう。 「……これも、返しておかないとな」 ポケットの中から、ハンカチで包んだ鞘の破片を取り出す。 一度だけ強く握り締めて、士郎は墓標の下に座り込んだ。 と、横から白い手が伸びて、地面を掘り返し始める。桜だった。 手が汚れるのにも構わずに、桜は大地に穴を穿っていく。士郎もそれを手伝った。 「……いいんですか？」 穴を掘り終えた桜が、そう尋ねた。 士郎は頷いて、鞘の欠片を穴底にそっと横たえる。 「もう、俺には必要ないものだから。本来の持ち主に、返してやるべきだ。それに──」 投影した聖剣とその鞘に触れる。 この幻想は、すぐに力を失って世界から消え失せる。だが、その雛形は衛宮士郎の世界に存在し続けるのだ。 己の持つ世界がどう構成されていくのか、士郎にはまだ分からない。だが、そこには必ず剣が存在しているのだろうし、ならばそこには彼女の剣が在るはず だ。 士郎は胸に手を置いて、言った。 「──本当に大事なものは、ここに」 「……ちょっと、妬けます」 言葉とは裏腹に、桜は極上の笑顔を浮かべてくれた。 「でも、桜の方が大事だ」 「…………知っています」 かなり勇気を出して言ってみたのだが、桜はさらりと受け流した。顔が真っ赤になっていなかったら、そう見えたかもしれないという程度にだが。 桜は聖剣の鞘に指を滑らせ、それから胸元でそっと手を組み、こう言った。 「──セイバー。貴女のおかげで、先輩と出会えた。貴方のおかげで、今のわたしがある。苦しい思いをさせて、ごめんなさい。そして───先輩を守ってくれ て、ありがとう」 士郎がイリヤに贈ったのと同じ言葉を、桜がセイバーに贈っていた。 謝罪の言葉を口にして、だが桜が最後に捧げたのは、感謝の言葉だった。 ──ああ、そうか。 簡単なことだったんだ、と士郎は気づく。 後悔もして、涙も流した。 その上で生きていく決意もした。 だが士郎は、何かひとつだけ、やり残したことがあるような気がしていたのだ。 それが何であるか、桜に教えられた。 きっと、セイバーには、こう言ってやるだけで良かったのだ。 一度は伝えた言葉。ただし、謝罪や罪悪感に裏打ちされたものではない、ただただ感謝の気持ちを込めて── 「──お前に、何度も助けられた。多分、これからも。だから──ありがとう、セイバー。お前が俺のサーヴァントで良かった」 まるでそれに答えるように、聖剣が崩壊を始めた。 ゆっくりと、士郎とセイバーの幻想が無に返っていく。 穏やかな表情の桜と並び、士郎もそれを眺める。 「……綺麗な人でしたよね」 崩れゆく幻想に気を使うように、桜が小さく囁いた。士郎は頷く。 「特に、外からじゃ見えない部分が」 「……そうですね」 「ああ見えて、けっこう頑固な奴でさ。機嫌を損ねると大変だった」 「……はい」 「俺の料理を、凄くおいしそうに食べてくれてさ」 「……そうでしたね」 「────大切な奴だったんだ」 「ええ…………」 「──まったく。貴女は世界一の果報者だ」 語り合う二人を、ライダーは少し離れた場所から見守っていた。 ライダーは、あの剣士との思い出など持っていないし、彼女について語りたいとも思わなかったからだ。 だが、セイバーについて誰よりも良く理解しているのは、ひょっとしたら自分なのではないかという思いもあった。少なくとも、あの夜、セイバーの姿を借り て士郎へ伝えた言葉は、セイバー本人の思いそのものだという確信がある。 あの騎士王は我が身の不甲斐なさを責めこそすれ、士郎への恨みなど微塵も持ってはいないだろう。もし、この光景を目にしたら、彼女は天に向かって誇るは ずだ。 あれが、私のマスターだと。 「だが、今は私の主だ、セイバー」 ライダーは不敵な笑みを浮かべる。 無限に広がる平行世界とやらの中でも、ここは極めて特殊な世界なのだろう。 忌々しい話だが、やはりセイバーは衛宮士郎の半身だったのだ。どのような世界であれ、きっと、あの騎士だけは彼の剣として存在しているに違いない。 もちろん、それはライダーと桜が彼に相応しくないという意味にはならない。それ以上だからこそ、今ここに流れている時間があるのだ。 「見ていなさい、騎士王」 いつかのどこかで聖杯を求め続けているのか、あるいは英霊の座にて世界を眺め続けているのか。最期まで分かり合わなかった剣士を思う。 （──貴女が取り逃がした運命が、どれほど大きなものであったのか、そこで見ているが良い。聖杯の泥如きに飲まれたことを、世界の果てで悔やんでいろ。こ の場所は、こんなにも暖かい） セイバーが手に入れるはずだったものは、全て桜とライダーが貰っていく。 交わした誓いの元に、ライダーは士郎と桜を最後まで見届ける。間違いなく、充実した数十年となるだろう。その代償として、これからもライダーは士郎と桜 を守る。この身は騎士にあらねども、衛宮士郎の剣となり、間桐桜の盾となる。 「……だが、騎士王よ」 今まさに消え去ろうとする聖剣に向けて、宣言する。 「ふたつだけ、誇りなさい。あの少年に剣を捧げた、最初の英霊であったことを。そして、その身が彼の半身であったことを」 それがセイバーに与えられた全てで、ライダーが手に入れることのできない、数少ないものだ。 それ以外のものは、全てライダーが受け継いでいく。ライダーは最期まで、主の剣であり続ける。セイバーが成せなかったことを、この身は成し遂げてみせ る。そして、セイバーは真の敗北を知るのだ。 「ライダー、そろそろ帰ろう……って、どうしたんだ？」 ライダーを呼びに来た士郎と桜が、そろって目を丸くしている。知らず知らずのうちに、笑みを浮かべてしまっていたようだ。 「いえ。悔しがる顔を思い浮かべたら、少し愉快な気分になっただけです」 「……はあ」 首を傾げる二人から目を外し、眼下に広がる冬木の町を眺める。 「──良い眺めですね」 士郎と桜が横に並ぶのを感じながら、ライダーは目を細めた。 冷えた大気。 春の暖かな空気が流れ出るまでは、もう少し時間がかかるだろう。 運命の日から、二年目の冬。 力持つ聖杯も、戦場を駆け抜けた英霊たちも、金髪の少女の姿も、今はもうない。 失ったものと得られたもの。 それらを秤にかけ、時にはつり合いが取れないことに腹を立てながら、それでもなんとか生きていく。 取り返しのつかないことを積み重ねながら、それでも季節は過ぎる。 運命の冬が過ぎ、新しい春が来る。 そして── 今年もまた、皆で約束の花を見に行こう。 冬の透明な大気の向こうに、舞い散る花弁の姿が見えるようで── ライダーは、いつかあの騎士も見上げた青い空に、誇らしげな笑みを漏らした。 ＳＳ保管庫へ |