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４ 「なぜ、気付いたのです？」 ライダーは呆然と立ち尽くしていた。 ありえないことが起きている。 自己封印・暗黒神殿。魔眼を封印するための、ライダーの宝具。それ自体がひとつの結界でもあるという特性を利用して、ライダーはこの世界を作り上げてい た。 構築は完璧だったはずだ。 ライダーは、士郎にとってもっとも理想的で、優しい幻想を作り出した。無意識下の衝動に苦しめられている士郎は、この世界で与えられる奇跡に希望を見る はずだったのだ。 なのに、士郎はいともあっさりと、真実に辿り着いてしまった。 その士郎は、なんとも気まずそうな顔をしてライダーの前に立っている。彼は、自分が何をしでかしたのか理解しているのだろうか？ 「……私が、セイバーの挙動を再現し切れなかったということですか」 完璧に複製したつもりでいたが、かつてのマスターである士郎から見れば、不自然さが残っていたのかもしれない。 だが士郎は、少し寂しげな笑みを浮かべて顔を左右に振った。 「……そんなことはない。本当に、セイバーに良く似ていた……というか、セイバーそのものだった。今でも、ひょっとしたら本人だったんじゃないかって思い たくなるぐらいだ」 「な……それなら、なぜ？」 ライダーは混乱する。 士郎はこの宝具の能力を把握していなかったのだし、それでは疑う理由が何もないではないか。 だが士郎は、苦笑気味に微笑んで、こう言った。 「だってさ。今さらセイバーが帰ってきて、俺のことを励ましてくれるなんて──そんな都合の良いこと、あるわけないじゃないか」 それだけだった。 ライダーはその後に続くはずの言葉を待ったが、彼は困った顔をして見返してくるだけだ。 「…………馬鹿な。士郎、貴方は」 彼が口にしたことの意味を理解して、ライダーは絶句した。 つまり、士郎はセイバーやこの世界が幻想であると推測したわけではなく。 ただ、『自分には相応しくない幸福だから』という、理屈にもなっていない理由だけで、目前の世界を否定したのだ。それは、「救われる衛宮士郎」という概 念を自らの手で叩き壊すことに等しい。 「……まあ、あんまり大きなことは言えないけどな。俺だって、セイバーの夢を見てたぐらいだし。……いまさら、セイバーの夢を見る資格なんて、無いのに」 そう言って、士郎は何でもないことのように苦笑する。 彼が口にした言葉のひとつが、妙にライダーの耳に残った。 「……セイバーの夢を？」 「ああ。……ライダーは、俺のことを心配して、こんなことしてくれたんだろ？ なんとなくだけど、今の俺の状態についても、見当がついてる。でも、大丈夫 だ。あいつのことは……あの時に、忘れるって決めたんだ。俺に、セイバーのことをを思い出す資格なんてない。だから──今度こそ、セイバーのことは忘れ る」 彼は言い切った。 その言葉は確信に満ちて、声は微塵も揺るがない。 （……セイバーを忘れる？） 可能なのだろうか。自身の半身を、完全に切り捨てて生きていくということが。 そんな困難な道を歩もうとするのは、士郎らしい強さの表れなのかもしれない。 だが、それならばなぜ── 彼の浮かべている表情は、あんなにも自嘲に似ているのだろう。 不愉快だ、とライダーは思った。 強がりならば、それも良い。だが、士郎の決意はどこか歪んでいるように見えた。 失ってしまったから。だから、もうそれを超えるものは手に入らないだろうという、そんな認識。 それは、諦観と呼ばれるものではないのか。 そう思った次の瞬間、ライダーの口は勝手に言葉を紡いでいた。 「なぜ嘘をつくのです、士郎」 「……は？」 士郎が、ぽかんと口を開いて硬直する。 何を言っているのか、と困惑する士郎に向かって、ライダーは続けた。 「貴方とて分かっているでしょう。セイバーを忘れることなどできないと」 「なっ」 士郎の顔が強張った。反論しようと口を開く彼を無視して、ライダーはさらに続ける。 「我が身を切り刻んでみたところで、彼女の面影を消し去ることは不可能だ。貴方は、忘れたフリをしようとして傷口を深くしています」 「…………そんな、ことは」 かすれた声で、士郎。反論しようと口を動かすが、彼の心は一片の言葉も紡げはしなかった。 一方で、言葉を積み重ねるにつれて、ライダーの確信は強くなっていった。 追い討ちをかけるように、士郎の瞳の奥を睨みつける。 「ようやく理解できました。貴方の痛みは、セイバーへの罪の意識だけが生み出しているものではない。士郎を傷つける聖剣の正体は──セイバーに見合うもの など手に入らない、幸せになどなれるはずがないという──エミヤ士郎の、絶望です」 「違う！」 一瞬だけ、士郎は確かに怯んだ。 だが士郎は即座に態勢を整えると、ライダーの視線を正面から受け止めた。 「俺は……俺は、桜の味方になるって決めた！ 取り返しがつかないってことは、最初から分かってた。それでも俺は、桜を幸せにしてみせる。諦めてなんかい ない！」 彼の全身には、この件に関しては一歩も引かないという、強い意志が満ちていた。 彼の言葉に嘘はないのだろう。当然だ。だからこそライダーは、彼を桜の伴侶と認めたのだから。 だが、足りない。ただ桜のことだけを見ていては、彼女の幻影は振り解けない。 ──いや、これは士郎だけの問題ではない。 ライダーは、なぜ自分がこうも不快な気分になっているのか、不意に理解した。 セイバーの影を前にして、桜の名を連呼する士郎。桜が何よりも大事だと断言する士郎。そのくせ彼は、セイバーのことを必死になって忘れ去ろうとしてい る。 それは、あの騎士の記憶が絶望的なまでに輝かしいからであり──その影が、桜を覆い隠してしまわないかと恐れているからではないのか。 桜よりもセイバーの方が大切な存在だったのだと感じてしまったら、今ある衛宮士郎の全てが否定されてしまう。だから切り捨てる。失ったものと得られたも のを、秤にかけないために。 とんでもない侮辱だった。 ライダーのマスターが、あの騎士王に劣るとでも言うのだろうか。ほんの数日の思い出が、この二年を駆逐するはずなどないというのに、士郎は内心、それを 恐れている。 ライダーは、この頑固者の思い違いを正してやろうと決意した。 士郎は、気合負けしてなるものか、とでもいうようにライダーを睨み続けている。 ライダーの目には、彼が信念を持った戦士というよりも、わがままを押し通して真実に変えようとしている子供のように見えた。少なくとも、ライダーが認め た衛宮士郎の姿ではない。 「──本当は、セイバーの姿を借りて手渡すつもりでしたが」 ライダーは懐から切り札を取り出し、士郎に差し出した。 「……それは？」 ライダーの手の平に置かれた物を見て、士郎は訝しげに眉根を寄せる。 小さな金属片だった。手の平に収まってしまうほどの、小さな欠片。 士郎の手を開かせ、金属片を無理やり押し付ける。戸惑う士郎に、ライダーは静かに伝えた。 「……これは先日、大空洞の跡地から回収された、貴方の身体の一部から発見されたものです」 「俺の……身体？ 元の身体、ってことだよな？」 士郎はまじまじと金属片を見つめている。 「……剣の破片、か？ アーチャーの腕に侵食されて変質した」 「違います。確かに士郎の身体の大部分は剣と化していましたが、それは違う。微弱ながら、独自の魔力を有していました」 「確かに、剣から受けるイメージとは違う、けど。……なら、これは？」 惹きつけられるものがあったのか、士郎は手の内の金属片を凝視していた。何か覚えがあるはずなのに思い出せない、もどかしげな表情で思いを巡らせてい る。 ライダーはそっけなく、事実を伝えた。 「分かりませんか、士郎？ それは、聖剣の鞘の一部です」 「────え？」 士郎の視線は鞘の破片とライダーとの間を行き来し、最後に破片の上で止まった。しばし鞘の欠片を目で撫でた後、ようやく言うべきことを思い出したかのよ うに、慌てて問いただしてくる。 「聖剣の鞘って……セイバーの剣の鞘か！？」 「はい。サクラとリンが確認を取っていましたから、間違いありません。騎士王の手から失われたエクスカリバーの鞘。所有者に不死の力を与えるとも伝えられ る、アーサー王のもうひとつの宝具です」 「……セイバーはそんなもの、持ってなかったぞ。どうしてセイバーの宝具が、俺の……中、に……」 考え込む士郎の言葉は次第に勢いを失っていき、ついには途切れてしまう。彼の全身は硬直し、顔は一瞬で青褪めていた。 ぎしぎしと音が聞こえてきそうな仕草で、士郎の顔がライダーへと向いた。苦しげに開いた口から、言葉が漏れ出してくる。 「ちょっと……待て。変だぞ、それって。えっと……」 「……妙だとは思っていたのです」 茫洋とした色に瞳を染めている士郎へ、淡々と言葉を投げる。 「サーヴァントを召喚するためには、物質的な触媒が必要不可欠です。マスターと英霊を繋ぐ縁。しかし、貴方はセイバーに縁のある物を何も持っていなかった という。──その欠片のおかげで、ようやく辻褄が合いました。触媒は、貴方の中に埋め込まれていた聖剣の鞘……いえ、衛宮士郎自身だったのです」 沈黙が降りた。 理解できない、したくないといった顔で黙り込んでいた士郎が、弱々しく頭を振った。 「……待ってくれ、頼む。セイバーを召還したときにはもう、これは俺の中に在ったってことだろう？ なら、埋め込まれたのはもっと前なんだから……」 呟く声には力がない。 本当はもう、答えに気付いているだろうに。先延ばしにしようと積み上げていく言葉は、しかし確実に真実へと近づいていってしまう。呆然とした顔が混乱に 包まれ、それは恐怖にも似た感情に移り変わっていった。 「それじゃ……あの火事の中で、俺が生き残ったのは……」 「──ええ。そう望んだのは衛宮切嗣かもしれない。ですが……貴方を生かしたのは聖剣の鞘の力。セイバーが、貴方を助けたのです」 「…………」 士郎の瞳から、感情の色が抜け落ちた。 彼の心は、１２年前に起きた聖杯戦争、その終末の時へと戻っているのだろう。味わった地獄と、そこから救い出してくれたという衛宮切嗣。そして、今初め て知った、自身を守護していた少女の力を。 危ういバランスを保っている彼の背中を押すように、ライダーは告げた。 「分かりましたか、士郎？ それが、貴方が失ったものの大きさです。貴方は、出会う前から自分を守り続けてきた相手を、唯一無二の半身を。自らのエゴのた めに切り捨てたのです」 声もなく、士郎はその場に膝をついた。震える手で鞘の欠片を握り締め、額に押し付ける。 彼は今、自らのうちに占めるセイバーの大きさに身震いしていることだろう。セイバーを失ったときよりも、彼女の胸に剣を突き立てたときよりも、強く深 く。 だが、ライダーにとっては、今までのことは枕詞に過ぎない。士郎の中でいかにセイバーが大きな存在であろうと、ライダーには関係がない。 全ては、こう尋ねるために必要だっただけだ。 「士郎。されば、問いましょう」 ライダーは士郎を見下ろす。士郎が、何かの衝動を必死に堪えながら、ライダーを見上げる。 彼の瞳に向けて、静かに問いかけた。 「それでも貴方は、セイバーよりもサクラの方が大事だと言えますか？」 「…………」 士郎はそっと手を開き、己が半身の欠片を見つめた。 ライダーにとっては、ただの金属。だがそこには、彼を守ったもの、彼に出会いをもたらしたもの、彼が無くしたもの、彼が失ったもの──今ある衛宮士郎の 全てがあるのだろう。試金石というには重過ぎる、英霊の遺産。 士郎は、手の内の破片──いや、その向こう側にいる誰かに向けるように、とても優しげな目をして、囁いた。 「……分かってたんだ。セイバーが、俺にとってかけがえのない存在だってことぐらい。セイバーがいてくれれば、俺は絶対に間違わないって……セイバーがい るだけで、俺は強くなれるって、信じられた。……当然だよな。セイバーは、俺の剣で──俺は、セイバーの鞘だったんだから」 士郎は微笑んだ。 おそらくは、セイバーを失ってから初めて、彼女のために浮かべた微笑。 士郎は鞘の破片を大切そうに包み込むと、ライダーと目を合わせた。そして、少しぎこちない仕草で胸を張り、言った。 「──でも。俺は……そんなセイバーよりも、桜の方が欲しい」 歯を食いしばって、血が出るほどに鞘の欠片を握り締め、口にする言葉は震えていて。 それでも士郎は、胸を張っていた。 そんな彼の姿を、ライダーは、美しいと思った。 「……士郎。貴方の、その一言が聞きたかった」 ライダーは微笑んだ。 自分がこんな笑い方を出来るとは思いもしなかったが、心の底から微笑むことができた。 「ならば、士郎。絶望することなど、ありません。貴方は、失った以上のものを手に入れるのですから。セイバーとの思い出から目を背ける必要もない。サクラ との思い出は、それに勝るものとなるでしょう」 「……そうだな。うん。きっと、そうしてみせる」 士郎が頷きを返してから、微笑んだ。まだ青褪めた顔で、それでも温かく。 「──ありがとう、ライダー。俺、お前と会えて良かった」 「……っ」 彼の笑顔に、びくっと身体が震えた。 不意打ちだった。何がどう奇襲になっているのかは分からないが、不意打ちだと思った。 なにやら顔が熱い。まさかとは思うが、赤面などしていないだろうか、自分は。 ひとしきり動揺しているうちに、ライダーは彼に伝えたい言葉が残っていることに気がついた。 いや、そうではなく── 自分はきっと、最初からこう告げるために、この世界を作り上げたのだ。 意識を集中し、自分の姿を変化させる。 近頃着慣れていた普段着ではなく、英霊としての黒い装束をまとった姿へと。ただし、素顔だけはそのままに。幸い、ここでは魔眼の力は働かない。 背筋を伸ばし、いまだ膝をついたままの士郎を見下ろす。 女のくせに可愛げがないと、自嘲していた背の高さ。それが今は、なぜか誇らしい。 そうして、神話の時代から通じても初めての、誓いの言葉を口にした。 「──士郎。ここに誓います。これより私は、貴方の剣となり、貴方の盾となる。あの騎士王のような無様は見せない。この身は騎士にあらねども、貴方が桜に 対してそうしたように、私もまた貴方の絶対的な味方となりましょう。私はあらゆる脅威から、衛宮士郎を守ります」 「…………ライダー」 士郎が息を呑んだ。 今はもう手の届かない、遥か遠くの何かを眺めるように── 遠い遠い目をして、ライダーを見る。 ライダーは契約の言葉を、自分自身を御するための言葉を重ねていく。 「……そして、貴方と桜の行く先を、最期の瞬間まで見届けましょう。桜は貴方を幸せにするでしょうし、私はそれを守ります。胸を張りなさい、士郎。貴方 は、最良の選択をしたのです。貴方が選んだ未来には、間違いなどない」 士郎の顔が歪む。 必死になって爆発を押さえ込んでいる彼に、ライダーは出会ったばかりの頃の桜の面影を見たような気がした。 老婆心から、忠告したくなる。 「だから……今のうちに後悔しておくのも、悪くはないでしょう」 「……後悔……」 士郎は異国の言葉を口にするような発音で、繰り返した。そんな単語は知らない、意味も知らない── 「ええ。無理などしなくとも、貴方の中のセイバーは消え去っていく。私と桜が、そうしてみせる。忘れてしまえば、後悔したくてもできなくなります。だから ──彼女の影がまだ生きているうちに、泣けるだけ泣いておきなさい。貴方の失われた半身のために」 「…………俺、は」 反論でもしようと思ったのか。 口を開いたところで、士郎の喉と涙腺は彼の制御を離れていた。 嗚咽を漏らし、涙を零しながら、士郎は不思議そうな顔をして零れ落ちる水滴を眺めている。 それから、発火線の火花が爆薬に到達したかのように、絶叫した。 「……あ……ああああ！」 何度も床を殴りつけ、士郎が叫ぶ。 「俺は……俺は！ あいつは、俺を守ってくれたのに……出会うずっと前から、俺のことを守ってくれていたのに！ 俺は……なんて、取り返しのつかないこと を！」 この二年、泣き言のひとつも口にしなかった青年が、声を限りに泣いていた。大事な、とても大事なものを壊してしまったと、後悔と寂しさに震えている。 衛宮士郎は、二年もの時をかけて──今、やっと、後悔することができたのだ。 「……士郎」 ライダーは膝をつくと、少し──実を言えばとてつもなく悩んでから──おずおずと彼の身体を引き寄せた。 彼はすがりつくほど弱くはなく、ただ頭だけをライダーに預けてくる。 「あいつは、俺を守ってくれたのに……あいつが傷つく姿なんて、見たくないと思ってたのに！ 俺はセイバーを……セイバーを！」 「……ええ、士郎。分かっています」 衛宮士郎は、セイバーの名を叫びながら号泣する。 無様な姿かもしれないが、ライダーは侮らず哀れまず、そっと彼の身体を支えていた。 こんなにも大事に、のた打ち回るほどに大事に思っていた騎士よりも、士郎は桜とライダーを選んでくれた。 空元気であっても、胸を張って。 それは、とても誇らしいことだと思うのだ。 少しだけ落ち着いた士郎が、噛み締めるようにして言った。 「……やっぱり。俺は、セイバーのことを絶対に忘れない」 「──それも良いでしょう」 ライダーは頷いた。 士郎ならば、そう言うかもしれないと思っていた。 言葉どおり、士郎は生涯、セイバーのことを忘れはしないだろう。士郎はずっと、彼女に手を下したことを悔やみながら、それでも桜と共に歩いていく。 それは、あのまま自分を騙して悪夢にうなされているよりも、あるいは辛い生き方かもしれない。 だが、衛宮士郎にはこれぐらいが良い。士郎は後悔して、もがき苦しみ──それでも間違ってなどいないと、胸を張って生きていけるはずだ。 「……お前の残したものは、全部、俺が持っていくから……だから……ごめん、セイバー……ごめん……」 衛宮士郎は涙を流す。 虚像の世界、運命の場所。 月光の中に、彼の半身はもういない。 前へ／次へ |