３
──そうして、彼女の夢を見る。 毎晩毎晩、そればかりを繰り返していた。 いつもいつも彼女の夢。 その度に風景は異なっているのに、現れるのは彼女ばかり。 忘れたはずの笑顔が、仄かな香りが、柳眉を吊り上げた顔が、万華鏡のように繰り返される。 今日の彼女は、食卓について幸せそうにご飯を食べていた。士郎が気合を入れて作った力作だ。彼女は何もしゃべらずに、ただこくこく頷いては箸を運び、お かずを口に入れてはこくこく頷いていた。 その姿を見ているだけで、士郎はとても幸せな気分になった。得難いものが掌中に収まっているような幸福感と、パズルのピースが綺麗に揃っているときのよ うな安心感があった。 どちらも、士郎が手に入れることなど出来ないはずのものなのに。 彼女にお茶を入れてあげようと、士郎は席を立つ。台所に脚を運ぶと包丁が置いてあったので、それを手にして居間に戻った。 おかわりを、と言って茶碗を差し出す彼女の胸を、包丁で一突き。包丁は思いのほか良い切れ味で、根元までざっくりと突き刺さった。 流れ出る血の量にくらくらしていたら、自分の胸からも血が噴出してきた。それになんだか安心して、士郎は包丁をさらに奥へと突き刺した。 気がつくと彼女は消えてしまっていたので、士郎は包丁を水で洗い、食事を続けた。全部は食べ切れなかったので、残りはラップをして冷蔵庫にしまった。 次もきっと、彼女の夢を見る。 そして、結末もまた同じなのだろう。 夢など見ている場合ではないのに。 彼女の夢など見てはいけないのに。 衛宮士郎は、彼女のことを忘れなければならないのに── そうして、彼女の夢を見る。 「──────セイバー」 自分の声で目を覚ました。 目蓋を開けると、なんだか視界が滲んでいる。危うく涙を零しかけているのだと気付いて、士郎は慌てて目元を拭った。 今さら、夢を見たぐらいで泣くなど、セイバーと桜、ふたりに対する冒涜ではないか。いや、そもそもセイバーの夢を見ること自体が、衛宮士郎には許されざ る罪悪だ。 「それも……あんな、笑顔」 二年の歳月が磨耗させていた記憶が蘇ってしまい、士郎は顔を左右に振った。 信じられない。遠い記憶となっていたはずなのに、彼女の何気ない仕草まで、はっきりと覚えているなんて── 「…………はあ。しっかりしろ、衛宮士郎」 感傷に浸るのは、あの瞬間に止めると決めたはずだ。 気分を入れ替えようと思い、士郎は布団から抜け出した。ここしばらく、怪我をしたのが原因で寝込んでいたはずなのだが、今晩は随分と調子が良い。 襖を開いて、縁側へと出る。 月が綺麗な晩だった。 こうして夜空を見上げていると、切嗣と過ごした最後の夜を思い出す。 そして、彼女と初めて出会った運命の── 「……やめよう」 呟いて、士郎は中庭へと降りた。 ふと、土蔵へと目が行く。 ──魔術の鍛錬でもしようか。 だが、どうにも集中力を発揮できそうな状態ではない。下手に魔術回路を起動させようものなら、大怪我をしそうだ。 そう思いつつ、足はふらふらと土蔵へ向かっていた。最初は何の気なしに歩いていたはずなのに、次第に早足になり、ついに士郎は駆け出していた。 何の根拠もない、得体の知れない予感があった。 あまり反応が良くない体に鞭を打ち、土蔵に辿り着く。錠を開き、力いっぱいに扉を開いた。 （……寝惚けてるなあ、俺） 頭の中の冷静な部分が苦笑するのを感じながら、士郎は土蔵の中へと駆け込み── そこに、奇跡が立っていた。 金糸の頭髪に白磁の肌、碧玉の瞳。 白銀の鎧に身を包んだその姿は、どこまでも流麗。 差し込む月光を身に受けた彼女は、息が止まるほどに美しかった。 「…………あ」 声が出ない。身体が動かない。ついでに、頭も動いていない。 俯いていた彼女が頭を上げるのを、息も出来ずに見守る。 士郎と目を合わせる彼女の顔は、変わらず真摯で、可憐で、荘厳で── ただ立っているだけで心を揺さぶる彼女の姿を、士郎は陶然として見つめている。 我知らず、しかし大切な秘密を打ち明けるように、士郎は囁いていた。 「────セイバー？」 「……はい、シロウ。また会えて良かった」 ゆっくりと広がる微笑に耐えられず。 士郎は彼女を抱き締めていた。 「私とシロウを繋ぐ縁は、とても強いものだったのですね」 士郎の腕の中で、少し身体を固くしながら、彼女は言葉を紡いでいる。 「この地に残された大聖杯の残滓と、天の配置。そして、桜の力と触媒の欠片。そんな偶然の重なりが、私を再びこの地へと導いてくれた」 彼女は目を細めて、士郎の顔を眩しそうに見つめた。 「……逞しくなりましたねシロウ。成長した貴方の姿を見られただけでも、この時代に戻ってきた甲斐があった」 大切なものを愛でるかのような瞳に、耐えられない。 士郎は彼女の身体から腕を離すと、一歩後ろに身を引いた。 士郎の反応に、彼女は目を丸くしてから、穏やかな微笑を浮かべる。 「大丈夫です、シロウ。驚くのも無理はありませんが、そう警戒しないでください。この身は幻ではなく、肉を持った存在です。……もちろん、偶然がもたらし てくれた不安定な現界に過ぎません。恐らく、朝を迎えることは出来ないでしょうが」」 彼女の顔に、一瞬、寂しげな色が宿った。しかし、それもすぐに消えて、彼女は神に感謝するかのように両手を組んだ。 「……とはいえ、これ以上を望むのは贅沢というものでしょう。これだけでも、十分すぎるほどの奇跡なのですから」 士郎は顔を俯かせる。どんな顔をすれば良いのか、分からない。 「出来うることならば、貴方の行く先を最後まで見届けたい……ですが、一晩あれば伝えたいことは十分に伝えられます。なにより、私はシロウに会えただけ で」 不意に、彼女の声が詰まった。 停滞した空気に引き寄せられて視線を上げると、彼女の不安げな顔が飛び込んできた。 動揺する士郎に追い討ちをかけるように、今度は彼女の方が顔を俯かせてしまう。 「──シロウ。その……なぜ、何も話してくれないのですか？ もしや……主を裏切ったサーヴァントの顔など、見たくもないと？」 「──っ。そんなこと、あるわけないだろ！」 心細そうな声に、士郎は思わず叫んでしまっていた。 そんな、心から傷ついた顔をしてみせるなんて、反則だ。 「俺がセイバーのことを嫌うなんて、そんなことありえない。そうじゃなくて……ただ、俺には、こんなこと、勿体無さ過ぎるから。俺には、セイバーに優しく してもらう資格なんて、ないんだ」 「──やはり、私のことを気に病んでいたのですね、シロウ」 「…………俺は」 悲しげな響きに胸が締め付けられる。なおも目を逸らそうとすると、彼女は手を伸ばしてそれを阻んだ。そっと頬に手を添え、士郎の目を碧の瞳で釘付けにす る。それこそ石化されてしまったように、士郎は動けなくなった。 「シロウ。貴方が自分を責める必要など、どこにもありません。シロウは何ら恥じることのない戦いをした。敵となった私に対してさえ、敬意を払って剣を交え てくれた。……責めを負う必要があるとしたら、それはシロウではなく私にある。主に対して剣を向けるなど、なんと無様な……」 「それは違う！」 シロウは絶叫した。認められない。彼女がなんと言おうと、それだけは。 「……悪いのは、俺だ。俺の無力さが、判断の甘さがセイバーを殺した。セイバーは最後まで俺のために力を尽くしてくれたのに……俺はセイバーのマスターと して、何もしてやれなかったんだ」 吐き捨てる士郎を見つめる彼女は、とても優しい顔をしていた。彼女の手が、いとおしむように士郎の頬を撫でる。 「……シロウ。それでも、私は貴方に感謝しているのです。──貴方はあの時、悩むことなく刃を振り下ろしてくれた。そのことに、私がどれだけ安堵したこと か。貴方が少しでも躊躇していたら……私は、シロウをこの手にかけることになっていたかもしれない」 恐怖にも似た感情が、彼女の顔に滲み出る。彼女は手を胸の前まで引き寄せ、ぎゅっと握り締めた。 「だから、私は感謝しているのです。私は貴方を傷つけたというのに──シロウは私を救ってくれた。裏切り者のサーヴァントを罵ることもなく、それどころか その死を悲しんでもくれた。──シロウ。貴方は私の誇りです。私は、貴方に仕えることができて、本当に良かった」 そう言って胸を張る彼女の瞳は、真摯で。 「だから、シロウ。もう、自分を責めるのは止めてください。貴方が苦しむ姿を見ていると、私も辛くなる」 そう告げる彼女の微笑は、泣きたくなるほどに純粋だった。 だから士郎は、一度だけ、許されないと分かっていながら頷いた。 「────うん。ありがとう」 「……ああ、シロウ。貴方のそんな笑顔が見たかった」 そう言って笑う彼女の笑顔は、きっと、士郎の固い笑顔などより、何十倍も魅力的だった。 重荷になっていたものが解消されたからだろう、彼女は上機嫌な様子で士郎の横に回り、土蔵の外へと誘うように手を伸ばした。 「さあ、何か話をしましょうシロウ。夜が明けるまでの間とはいえ、まだまだ十分な時間があります。いえ、話でなくても良い。貴方がどれほど腕を上げたの か、剣を交えて確かめてみるのも悪くありません」 「……ああ、そうだな。結局、セイバーからは一本も取れなかったから」 彼女の横顔から目を離せない。 ちょっと得意げに胸を張る姿は、可愛らし過ぎて残酷だ。 「はい。もちろん、今回とてシロウに遅れを取るつもりなどありません。──それと、あの。ひとつだけ私からもリクエストしたいのですが……」 「……うん」 「……こんな夜中にお願いすることでもないとは思うのですが、その。……シロウの作る料理を、もう一度食べてみたい」 恥ずかしそうに、上目遣いでこちらを見上げる彼女。 無言のまま、しかしとても満足そうに食事を進める姿が、昨日のことのように思い出されてしまう。 「……そうだな。セイバーにご飯を作ってやれたら、素敵だな」 「はい！ 是非ともお願いします」 大仰に頷いて、彼女は満面に笑みを浮かべる。 ──夢のような光景。 ただ一夜の奇跡。 星が与えてくれた、別れのための刹那の再会。 その短い時間で、セイバーは衛宮士郎を許し、士郎はセイバーに最後の贈り物をする。失われた半身との、最後の触れ合い。 きっと、士郎はこの晩の思い出ひとつで、この先ずっと、胸を張って生きていける。 なんて、優しい奇跡だろう。 優しすぎて、衛宮士郎の胸には入りきらない。 「…………セイバー」 士郎はもう一度、彼女を抱き締めた。優しく、優しく。 彼女は頬を赤く染めて、もじもじと身体を身じろぎさせた。 「シ、シロウ？ その……離して下さい。これは少し、良くない。いえっ、決して不快なわけではなく、むしろ心地良いほどなのですが、桜に申し訳ないと言い ますか」 「……セイバーの姿をもう一度見られて、嬉しかった。俺には、そんな資格ないのに……それでも嬉しかった」 彼女の身体が強張る。 彼女は立腹した様子で、きっと士郎を見上げた。 「シロウ！ 貴方はまだそのようなことをっ。言ったはずです、貴方には何の責任もない。私は貴方を誇りに思って──」 必死になって訴える彼女に、士郎は微笑みながら首を振った。 「……やっぱり、俺には分不相応だ。十分に、夢は見たから。だから、もう良いんだ。 ありがとう──────ライダー」 彼女が砕けた。 前へ／次へ |