２
静かに扉を開き、ライダーは寝室へと足を踏み入れた。 カーテンが閉められ、照明の明度も落とされているせいで、室内はひどく薄暗い。 陰鬱な抵抗感を感じさせる空気をかきわけるようにして、部屋の中央へと進んだ。 「…………サクラ？」 ベッドの脇に置かれた椅子に腰掛けている、少女の名を呼ぶ。返事はない。そっと顔を覗き込むと、桜は小さな寝息をたてて眠り込んでいた。 もちろん、起こすような真似はしない。少し考えた末、慎重に主の体を抱き抱えてみる。幸い──と言って良いものなのか、桜が目を覚ます気配はなかった。 よほど、深い眠りに落ちているのだろう。 指の先だけでノブを回し、廊下へ出る。遠坂の館も、随分と使い慣れてきた。桜用に用意されている寝室を目指しつつ、ライダーは桜の顔を覗き込む。 清楚な佇まいの顔には、疲労の色が強く滲み出ていた。この三日ほどで、別人のようにやつれてしまった桜の様子に、ライダーは眉をひそめる。 いかに無限の魔力を持ち魔術的に強化された肉体であろうとも、まともな睡眠を取らずにいれば、遠からず限界が訪れる。栄養補給も怠り、精神的な疲労も蓄 積されているとなれば、なおさらだ。 疲れきって眠りに落ちてくれたのは、いっそ幸運だったかもしれない。目を覚ましたら、用意しておいた食事を取るように強く勧める必要があるだろう。ライ ダーは心に書き留めつつ、桜をベッドの上に寝かしつけた。 穏やかな寝息をたてる桜に頭を下げて、音も無く退出する。 早足で、もとの寝室へと戻った。 桜がいなくなったせいで、室内にはいよいよ人の気配がしなくなっていた。空気を入れ替えておこうと、窓を少しだけ開けておく。風の流れが侵入してきて、 室内に少しだけ活気が戻った。 ライダーは先ほどまで桜が腰掛けていた椅子に座り、ベッドの上へと視線を移す。 「………………」 不覚にも、多少の動揺を禁じえなかった。 視線の先にある光景に対してではなく、一瞬、誰もいないように錯覚してしまった自分に対して。 ライダーには、横たわる衛宮士郎が── まるで、壊れた人形のように見えてしまったのだ。 あれから三日。 衛宮士郎は眠り続けている。 壊れた人形、か。 なんて的確な感想なのかと、ライダーは苦々しい思いで三日前の晩を思い返した。 魔術を暴走させたあの晩から、士郎は壊れ始めてしまった。原因だと思われる事象の検討はついているのだが、その対応策が分からない。桜と丘の教会の老人 が議論を重ねているが、結果は芳しくなかった。 心配をかけたくないと凛には連絡を取っていないが、この分だと近いうちに帰国してもらうことになるだろう。もっとも、彼女が帰国したところで、事態が好 転するとはライダーは思っていないが。 無言のまま、ライダーは士郎を見守り続ける。何もせずに待ち続けることは、さほど苦痛ではなかった。ただ、自分が待ち受けているものを考えると、億劫に ならざるをえない。それでも、決して表情には出さなかった。顔に出してしまえば、その感情は確かなものとなって自分を縛る。だからライダーは、無表情に士 郎の顔を見守り続けた。 数十分が経過した頃だった。部屋の雰囲気に変化が生じた。 「…………サクラが席を外していたのは、幸いでしたね」 誰にともなく呟いて、ライダーは腰を上げた。 衣服を手早く脱ぎ去り、部屋の隅に放り投げておく。そして、英霊としての装束で身を包んだ。眼帯だけは外して、魔眼殺しの眼鏡を付け直す。 じっと見つめるライダーの前で、士郎に異変が起きた。体内の魔術回路が活性化、魔力が循環を始める。やがて、何らかの魔術が起動し── 士郎の身体が裂けた。 右腕が一直線に切り裂かれ、内部の組織が露になる。血が噴出す。 ライダーは士郎に飛びつくと、衝撃に跳ね上がる彼の身体を押さえつけた。飛び散る血液が、ライダーの白い肌に赤い斑点を浮かび上がらせる。 「────っ！」 悲鳴も漏らさずに、士郎の身体が跳ね上がった。また一箇所、士郎の身体が切り裂かれる。 外部から、ではない。それは全て、士郎の内側からもたらされる損傷だった。 士郎の身体を固定しているライダーの目の前で、士郎の内部から異物が顔をもたげてくる。 剣だった。 血に汚れていてもなお輝くそれは、間違いなく名剣と呼ばれるものだろう。 恐ろしく切れ味の良い剣が、衛宮士郎を内側から食い潰していた。 「────がっ！」 士郎の身体が、一際激しく硬直する。 次の一撃は、胸部を突き破って突き出されてきた。動脈を破ってしまったのか、勢い良く血が噴出す。今まで数度起こった暴走の中でも、もっとも酷い損傷。 いや、これは致命傷に近い。 士郎もろともに切り裂かれた自身の傷に顔をしかめながら、ライダーは身体を重ねるようにして士郎を抱き締めていた。こうしていると、多少なりとも暴走が 早く収まることを、経験上学んでいたからだ。もっとも、そんな事実がなくとも、ライダーは同じ行動を取っていたかもしれないが。 幸い、今の一刀が最後だったらしく、士郎の身体から力が抜けた。暴走していた魔術回路も落ち着きを取り戻していく。 ほっと息を漏らして、ライダーは士郎から身体を引き離した。血の香りに陶然としかける頭を振りつつ、士郎の状態を把握しようと努める。 血溜まりと化した寝台に横たわる士郎は、一見すると死体にしか見えなかった。即死ではないものの、かなりの重傷だ。今すぐに救急車に運び込むか、強力な 治癒魔術を用いて治療しなければ死亡するだろう。 だがライダーは、これにはまだ続きがあるということを知っていた。口元についた血液を舐め取りつつ、じっと見守る。 士郎の魔術回路が再起動した。魔力の巡りも安定しており、先ほどの暴走とは打って変わって穏やかだ。 変化は、やはり士郎の内部で起こった。起動した魔術の影響は、やがて身体の外部へと到達し、ライダーの目でも確認できるようになる。 ライダーが見守る中、士郎の負った傷は急速に塞がり始めていた。 数分も経つ頃には、傷は全て塞がり、青白かった肌にも血の気が戻っていた。内部の損傷は癒えきっていないだろうが、身体の外側に関していえば、ほんの少 し前まで死人同然だったようにはとても見えない。 「まさか、これほどの力があるとは……」 凄まじい治癒能力に、ライダーは戦慄すら覚えていた。この三日間、同様の暴走は何度も起きていたが、重傷を負うほどのものは初めてだった。にもかかわら ず、アレの能力は傷を癒しきってみせたのだ。 士郎の呼吸が落ち着いたのを確認して、ライダーは周囲の惨状を見回した。 酷い有様だった。士郎本人は言うまでもなく、寝台とその周辺まで血塗れだ。ライダーにとっては問題のない環境だが、病人を寝かしつけておくには不適当だ ろう。 まず、士郎の身体を清潔にしてあげなければ。ライダーはベッドの上に身を乗り出した。 「………………あ」 緊張の糸が途切れた直後だったからだろうか。ぐらりと視界が揺れた。士郎の全身から立ち上る血臭に、一瞬で全身が熱くなった。喉が干上がったような渇き を覚える。 脱力感と衝動が一緒に襲ってきて、ライダーは士郎の身体に倒れこんだ。 （──迂闊だった） そう思っても、手遅れだ。 あの晩、士郎が取り逃がした魔獣を撃ち落すために、ライダーは宝具を使用していた。常ならば、失った魔力は数日で補充されるのだが、心身ともに不安定な 桜からは、十分な量の魔力が供給されていない。現界するには問題ないレベルを維持してはいるが、士郎や桜の手伝いをするためには実体化している方が便利だ ということもあり、今のライダーは慢性的な魔力不足に悩まされている。 そんな状態のライダーにとって、士郎の清廉な魔力に満ちた血液は、あまりにも魅力的なものだった。 長らく感じていなかった強い吸血衝動に、自然と喉が鳴る。士郎の首筋に唇を這わしたくなるのを、必死になって抑えた。普段ならば桜に大目玉を食らう程度 で済むかもしれないが、この状態の士郎相手に吸血行為を行うわけにはいかない。 「…………は、あ」 なんとか破滅的な衝動は抑え込んだものの、一度膨れ上がった欲求はなかなか消え去ってくれない。無理やりに押し込めた衝動も、別の形の欲求と化して再浮 上してくる。 身体の奥がじんと熱くなるのを感じて、吐息を漏らす。 一口だけ──そんな衝動を抑えきれず、ライダーは士郎の唇にこびりついた血へと舌を伸ばし── 「………………セイバー」 その唇から発せられた言葉に、凍りついた。 冷水を浴びせかけられたように心が冷め、士郎と目を合わせている自分に気がつく。 「士郎──」 声をかけるが、士郎の顔には意思の力が全く篭もっていなかった。瞳にはライダーの姿を映しながら、士郎の意識は何か別のものを捕らえている。そのまま、 士郎は再び目蓋を閉じて、深い眠りの中へと戻っていった。 「…………よりにもよって、あの女と見間違えますか、貴方は」 身体が小さく震えるのを感じる。 これは、屈辱だろうか。いや、自分は怯んでいるのかもしれない──認めがたいことだが。 そしてライダーは、今の士郎を苦しめている原因について、確信を深めていた。 「……セイバー。まったく、貴女はつくづく気に食わない女です」 苦々しく、禁忌の名を口にする。 セイバー。剣の英霊。そして──衛宮士郎のサーヴァント。 士郎に起きた異変の原因が彼女にある可能性には、最初から思い至っていた。ライダーだけではなく、桜も同じだろう。 だからこそ、桜はあそこまで憔悴してしまっているのだ。この二年、桜と士郎は、お互いの罪を共に背負いながら生きてきた。だが、あの金髪の少女に関して のみ、桜は士郎の力になってやることができない。 当然だ──士郎の手からセイバーを奪い、士郎自身の手で彼女を殺めるところまで追い込んでしまったのは、桜なのだから。 桜が無力なのではなく、誰にも士郎の欠落を埋めてやることはできない。士郎とセイバーの繋がりは、通常のマスターとサーヴァントを超えるものだった。あ の二人は、お互いが半身と呼ぶに相応しい存在だったのだ。 そんな半身を、士郎は殺めた。──桜のために。 桜には、何も言えない。他のことであれば、士郎に無限の力を与えることができる桜でも、士郎の傷は消せない。 士郎も、この罪ばかりは自分だけで背負っていかなければならないと信じていたのだろう。彼はこの二年間、一度もセイバーの名を口にすることはなかった。 彼女のことなど忘れてしまったかのように振る舞い続けた。 そのまま、時の流れが彼の傷を癒していくはずだったのだが── ライダーは、細く開いたカーテンの隙間から、冬の高い空を垣間見た。 冬。二年ぶりに降った雪。久しぶりの実戦。セイバーが携えていた剣。戦わなければ誰かが傷つくという強迫観念。 そんな小さな事象の積み重なりと、最上級の宝具を投影するという難業が、彼に大きな負担をかけたのだろう。 救い難いことに、士郎自身は何も感じてはいなかったはずだ。だが、彼の奥底、もっとも深い部分は悲鳴を上げていた。 それなのに、士郎は無理やりに力を引き出そうとして……壊れてしまった。 巨大な罪悪感は、今もなおセイバーの剣をもって自身を罰し続けている。 誰か、士郎の手を取ってやる人間が必要だった。 桜では駄目だ。 彼女は間違いなく士郎の力になれるだろうが、今はまだ駄目だ。桜が支える前に、士郎を無条件で肯定することができる、そんな人間の力が必 要なのだ。例えば、かつて桜を抱き締めたときの、凛のような。 もちろん、彼にも手を伸ばしてくれる友人は数多くいる。だが、今回ばかりは誰も彼の力にはなれないだろう。桜も、凛も、大河も──ライダーでも。 そして、衛宮士郎を抱き締め、彼の欠落を埋めることができる、ただひとりの少女は── 今はもう、いないのだ。 前へ／次へ |